村長の家を出ると、帰還時の黄昏の名残は完全に失われていた。闇は重い不思議な煙のように力強く、周囲のものを悉く押しつぶしている。暗黒が身体の輪郭にすれすれまで押し寄せてきていて、家々からわずかに漏れる灯りだけが辛うじて私の歩く先を決める判断材料だ。
ロラの家がそこまで離れていないのが救いである。ただ、門番の責務に向かうとき、果たして無事にたどり着けるかどうか。
しばらく暗闇の中を進むと、目的の場所へとやって来た。当然ロラの家に灯りはない。
扉を開けると、不安そうな、薄氷を踏むような表情をした彼女の姿があった。家内には明かりがしっかりと点いているところをみると、恐らく鍛冶師が言っていた、見えづらくする魔法を行使しているように見受けられる。
テーブルにつくロラの様は、どこか儚げで危うく、手荒く扱えば砕け散ってしまいそうな雰囲気があった。
「あっ、騎士様……。お帰り」
そこにいつもの明るく話好きな姿は、微塵も感じられない。微笑みを無理矢理顔に張り付けたような、そんな風。いつもと同じように洒落た装いで、薄く化粧もしているのに。
「……ロラ」
咄嗟に、ただいまと言うことが出来なかった。
どうしてか。
苛々している上官に話しかける程度なら、何も思わないはずなのに。
それはいつも通り整えられた身なりからきらきら覗く頼りなさげな大きな眼が、どこか奇妙な焦燥感を搔き立てたからだ。
「ねぇ、どうしたの。騎士様」
まるで、このままどこかへ消え行ってしまいそうな。
そんな微笑。
ただでさえいつも察しがいいほうなのに、その眼は私の胸のざわつきすら見徹しているようだった。
「いいえ、なにも」
さっと自分の中の乱れを覆い隠す。間違いなくロラの方が心を疲弊させているはずなのに、私の内を吐露してさらに不安にするわけにはいかなかった。
しかしロラは弱弱しい笑みを頬に溜める。
「ううん、ごめん。私がさっき騎士様を不安にさせるようなこと言ったからだよね」
夕立の前ぶれの空のように、彼女の顔が俯いてくる。不安と恐れで今にもその表情は歪んでしまいそうなのに、ロラは気丈にもそれをみせない。
それどころか、自分が悪いと後ろめたさすら感じている。だがしかし。
「それは違います。ロラが狼に不安を覚えるのは普通に思います。皆でさえ息を殺して身を潜めているのに、ロラは」
「あたしの言ったこと、覚えてたんだ騎士様。でも大丈夫、過敏になりすぎてたんだ、あたし」
「いいえ。ロラが言ったのではないですか、痛みと苦しみは誰かに訴えていいはずだと」
肩が痙攣したように動く。
まさか私に、かつて自分が言ったことを返されるとは思ってもみなかったのだろう。驚いて、しかし声もなく手のひらで口を覆う。
しかしすぐに、ロラはその頬に虚無的な笑みを浮かべた。
「はは。まいったなぁー。まさか騎士様に言われるなんて」
先刻カルムに帰還してから、絶えずその笑みは張り付けられているように見受けられる。いつもは自然と綻ばせているのに。
自分の発言でありながら、その実はいま一番彼女がその苦しさを覆い隠そうとしている。
以前長鎗の彼女に、私は人の気持ちを知っていくべきだと言われたことがあった。正直、カルムに暫くいる今も察せないことは多い。しかし、私は気の利いた言葉はいまでも持ち合わせていないが、なんとなく。それはロラに良くないのではないか、という直感だけはある。
色々な人の心に触れるべき。
きっといまが、その時なのだと。
「狼の魔獣。心が凄くざわついて。変だよね、あたしの世代の子はみんな知らないことなのに」
「決しておかしくは思いません。ロラにとって、狼とはそのような存在なのでしょう?」
「……うん」
物哀しげに頷く。
「みな魔獣のことを忘れていたと言っていました。もしかして記憶に残らない何かを持っているのかもしれません」
「……それって、昔一度来てるってこと?」
そして閃光のようにどこかに至り、ロラの眼が見開かれる。
そのとき私に心の内を掠めるものがあった。言う必要はなかったのではないかと。
ロラが子供の頃に狼の手によって両親を失った時と、村長の言う魔獣の襲来の時期は一致している可能性がある。
もちろん確定ではない。
その魔獣が、仇敵であることは。
仇である者にはどんな攻撃的な行動でも起こす可能性があることは、歌うたいのときに嫌でも身に染みている。平和的な性格のロラでも、その可能性は除害出来ない。
ただロラは前回の魔獣が襲撃してきた時代を知らない。聞いている私の中ですら不確定であることを考えると、無茶な行動を起こすことはないように思う。
「もう一度魔獣がやって来ても、なんとかします。ですから、ロラは安心してここにいてください」
重ねて、先刻と同じようなことを言う。
何も起こらないようにと。
それは私の願望に近い。
なんとかできる保証などどこにもないのに。確定していないことは好ましくないと、自分が一番分かっていることなのに。
針を刺すような痛みを、鋭く良心の一隅に感じられずにはいられなかった。思ってもいないことを言うことに対して。ロラと、そして自分に嘘をついているような後ろめたさで。
「うん、分かった」
その微笑みは、私の心臓を掴む。
本当かと問いかけるように。