数日前と変わらない、禍々しく巨大な黒狼。
一つ違うのは、既に魔獣は村の中に侵入してしまっているということだ。冷静さは蒸気のように中空に飛び始めている。
「同胞を攻撃する気はない。でも赤茶の君には前回の恨みがあるからね、せめて君だけでも殺させてもらうよ」
やらせるわけがない。
構えは正眼。
真正面に魔獣を見据え、息を整える。
そこで違和感を覚えた。
何か私の考えとずれているような、釈然としない、何とも言えない引っ掛かり。
何に対してだろう。
それが何かは、自分でも分からない。
考え事をしながら相手取れる敵ではないとは分かっている。だが、完全に無視をするほどどうでもいい事ではない風に思う。そんな、一旦は置いておくようなしこりのような違和感。
開戦は一瞬の出来事であった。
手を引かれていた村人の一人がのめり、転んだのだ。
それ自体は仕方がない。視界を奪われた状態で退避しているのだ、小石に躓いてしまい人形でも倒すように軽く転がってしまっても、村人を責めることは出来ない。
そして意識がそちらに向いたことにより生まれた隙、そこを突くように攻撃を開始した魔獣に対しても。私でも同じタイミングで攻めるだろう。
心がどよめく。
転んでしまった村人ごと、村長を踏みつぶさんと振り上げられた前足。仮に避けることが出来ても、余波で村に被害が出ることは間違いない。その風圧で家が何軒か吹き飛んでしまう。
なのでその一撃は、受けなければならない。それもただ受けるだけではそのまま踏みつぶされてしまう。
だがどうやって、あの暴力的な踏みつけを弾けとい言うのだろう。私も、あの攻撃を弾けと言われたら武器や命の喪失を覚悟して挑むだろう。
それほどに強い圧力。
しかし、ただ一薙ぎ。
村長がその剣を振るうと、黒狼の前足は何か特別な斥力でも働いたかのように弾き返された。それどころか、少しだけ半身が浮いたように見える。
まるで、誤って灼熱に手を触れてしまったかのように。
「腕は衰えてないようだね」
それを、魔獣は意地の悪い笑みで返す。
恐らく以前にも同じようにされたのだ。でなければ、自分の前足を弾いたことに対し何の驚きもないのは冷静が過ぎる。ましてや村長は人間なのだ。
もしその剣が特別製だろうとも、その業は敬服に値する。
「はっ、衰えたさ。その足、斬れなかったからな。今じゃ俺よりリーデのほうが強ぇ。自慢の娘だぜ」
隠しようもない得意顔。恐らくそれはいましがた披露した技巧に対しではなく、長鎗の彼女を誇ってのことだろう。きっと彼は、そういうひとだ。
そしてそれは多分、誇張ではないのだろう。
少なくとも村長本人は、そう思っていると私は思う。
「娘が出来たんだ、じゃあなおさら踏みつぶしてあげないといけないな」
言って、魔獣は体を持ち上げた。両前足を叩きつけ、全体重を以てこの場所を破壊するつもりらしい。
「村長!」
流石にこれは先刻の技巧でも対処するのは難しいだろう。業を力技で蹂躙する、これはそんな一撃だ。私が村長を呼んだのは、それでもその攻撃を受けようと身構える村長の姿を見咎めたためである。
村長は先ほどの攻撃をどうやって捌いていただろうか。
ただ切っ先を天に向けるだけでは踏み潰される。村長のようにタイミングよく弾かなければ、村は壊滅的な損害を被るだろう。
出来ることをやる、ではない。
やらなければ終わるのだ。
そうして魔獣の全体重を乗せた一撃が振り下ろされる。肺腑を雑巾のように絞られているような緊迫感。全身の神経を研ぎ澄まして、大剣を振るうタイミングを見計らう。
機は一瞬。
ただ振り上げるだけではいけない。叩きつけられる前足に対し、斜めに滑らせる必要がある。
受ける部位はフラー。
それ以外は叩き折られる。
感覚を鋭く、しかして冷静に大剣を振り上げる。前足の裏を滑らせるように一撃し、魔獣の攻撃を流す。途端に痺れるように手が重くなり、軽々と受け流してみせた村長に比べて未だ私には技巧が足りないように感じた。
しかし、なんとか大剣を振り上げると前足を弾くに至り、魔獣の上半身を浮き上がらせた。
「流石、やるじゃねぇか騎士殿」
感投詞が呈される。実際、肩の荷が下りたような、そんな気持ちにもなった。巨大な相手に対する対処法の会得、それだけで私には価値のある一振りとなった。
魔獣の顎は落ち、瞬きすら忘れた表情であった。
「なら、追撃は俺の役目だな」
言って、構えを取る。
妙な構え方であった。剣を懐に、それも片手で。まるでこれから刺突することをアピールするような、そんな風。
「起きろニドヘッグル、久しぶりに馳走の時間だぜ」
剣の銘を呼んだ、途端。
刀身が白く赫奕し、全く同じ姿形をした剣が生まれ落ちた。中空に放り出されるように生成されたそれは、恐らくは魔獣の一部を取り込んで造られたいわゆる特別製と言う物だろう。
どうして村長が特別な武器を携えているのかは不明だが、ともかく今から強力な一撃が繰り出されることだけは分かる。
空いた片手で生成された剣を掴むと、構え直す。
恐らくはそれが、一撃する本来の構え。片足を一歩引き、体を横に開く。一対の剣をそれぞれ上段と下段に構えるその恰好は、まるで眼前の狼が大口を開けた様だった。
「それは、その構えは!」
知っているように、魔獣が声色に奇妙な焦燥感を混ぜる。過去に見たことがある、そんな様子。退却させたとするならば、恐らくは今から放たれる一撃だろう。
「へっ、大人しく帰りな魔獣」
放たれる。
引いた片足を思い切り前に踏み込み、二本の剣で中空を刺突した。途端に繰り出されるは、荒れ狂う竜巻。風という空を馳せる天災。台風が渦巻く白い光という姿を得て、ただ一つの存在に叩き込まれる。