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episode27 「避難したはずの村の皆が」

 とりわけ即座に特殊な事が起きたわけではなかった。

 ただ忘却というその言葉。それだけで、この状況に危機が重苦しい空気のように立ち込めて来る。

 今ここで、先刻のように魔獣のことを忘れてしまったとしたら。

 逃亡した魔獣が回復し、もう一度警戒の解けたカルムを襲撃してきたなら。

 次は同じようにはならないだろう。なぜなら魔獣へ攻撃を加えることに成功している村長は、片腕を失っている。少なくとも、分裂する特別製の剣は扱うことは出来ない。

 それは何としても阻止しなければならないが、肝心の魔獣は炎槍により生じた硝煙により、現状を確認することも難しい。

 直撃したようには見えた。

 ただ攻撃を止めてまで唱えた魔法があったのだ。姿を確認するまでは、それで終わったと安堵することは出来ないだろう。煙に乗じて逃亡している場合も、また襲撃を狙っている可能性もある。

 不用意には近づけない。

 だが攻撃をされた場合、真っ先にその危機に晒されるのは村長だ。魔獣の眼前におり、負傷している。これほど狙いやすい相手はいないだろう。

 嵐のように、苦悩が襲ってくる。

 瞬時に判断しなければならないのに、その二者択一にはどちらにもメリットとデメリットがあった。村長を護るため接近すべきか、警戒してこの距離を保つべきか。

 その倦みを吹き飛ばしたのは、後ろから駆けてくる音だった。長鎗の彼女は瞬時に判断し、行動したのだ。距離を詰めるという選択を。

 脳内で火花が弾ける。

 対処しようとしているということは、まだ忘却は発動していないということだ。

 先刻の発言から、恐らく魔獣との距離を詰めるというよりは、村長に駆け寄っているのだろう。早く去れ、という言葉がその裏付けである。

 ただ魔獣の足音がないのが危懼だった。

 あの巨体で逃走するならば、大地が鳴くような地響きがあるはずだ。だがいまここに流れるものは、長鎗の彼女が駆ける音だけ。

 飛び立ち鳥が羽ばたくように、河面の雪が消えゆくが如く、煙がざわめいた。

 そこに、魔獣の姿はない。


「なっ!?」


 思わず、長鎗の彼女が声をあげた。足は止まり、立ち尽くすような形で。

 私も、まさか姿が消えるとは思っていなかったため、呼吸音が喘ぐような声になってしまう。

 巨体を誇る魔獣が足音もなく、その場から姿を消すことは可能なのか。一般に考えればありえない。しかし相手は魔的な存在だ。ありえないはありえる。

 すぐさま警戒心を炎ように滾らせて、大剣を構えた。

 そういえば一度、あれほどの巨体が普段見つからないのはおかしいと考えた覚えがある。その解答がいま出たとしたら。魔獣には姿を消す能力があるとするなら、いまの状況に納得ができる。

 そして、この時が薄氷の上に立つよりも危機的であるということも。


「リーデ様、お気を付けを! 魔獣は姿を消す魔法を使う可能性がございます!」


 前に立ち尽くす長鎗の彼女に勧告する。ただそれは、いくら実力者である彼女にであっても酷を言ったように思う。

 彼女はいま、槍を投擲してしまっていて素手である。

 姿を消したまま攻撃することができないことがまだ救いか。もしできるならば、とっくに終わっている。だが何の武装のない状態で、あの魔獣をどう相手取れと言うのだろうか。

 すぐさま、私は彼女に駆け寄った。


「騎士様、姿を消す魔法とはどういうことですか」

「あくまで可能性、でございます。あれほどの巨体が今まで見つからなかったのは、やはり妙に思います」


 不確定の事象はあまり言いたくはなかったのだが、今回は現状が現状だ。もし反論があるなら言い返せる材料は持ち合わせていないが、長鎗の彼女はなるほど、そう言って納得したように見えた。

 問題は、どの程度消えているかだろう。

 時間は当然、今まで踏み倒された野草を見るに移動した痕跡はない。だがそれすらも消失させられるとしたら、最早対策のしようがない。

 攻撃してくる瞬間にのみ姿を見せるなら、超反応で返り討ちにする。この状況下で決めることといったらそれくらいだ。

 一歩、彼女の前に出る。

 今までどおり、盾になるように。

 どこから、何を攻撃されるかも分からない。

 文字通り、目に見えないものに監視されているような緊迫感。もし魔獣が、私たちを通り過ぎて村に襲い掛かったのなら一巻の終わりである。もし私が村を攻撃する立場ならばそうするだろう。

 平静さに努めた。

 緊迫により余計な力の入った剣を握る手と、知らず寄ってくる眉とが、その呼吸を数え合う。

 村長の様子を確認しに近寄れないのがもどかしい。いつその膝が折れてもおかしくないというのに。

 どこに位置取るのが正解なのか、明確に答えのないことには心細くなる。まるで判決でも待つかのようだ。

 時間が滴っていく。


「騎士様」


 吐息と変わらないような囁き。

 それに、私は剣を握り直すことで答えた。


「避難したはずの村の皆が出てきてしまっています。あれは?」


 その言葉が、心臓をどくんと打った。姿を消した魔獣がどこから来るのか、それだけを考えていたが、急に別の事柄が脳内を支配する。

 そうか、忘却は発動していたのかと。

 長鎗の彼女がまだ魔獣のことを忘れていないから、そう思考したのは間違えだった。

 彼女はロラのように、私の影響で忘却の影響から免れていたのだ。村の皆はとっくに、魔獣のことなど忘れている。

 襲撃するならば今だ、という気が、心頭を掠めて一閃した。明らかに、自分の視界が狭まっていき、鼓動が早鐘を打ち始めたのを感じる。

 遠くから地鳴りのような音が伝わってきたのは、ちょうどそのときだった。

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