「戻りました」
家の戸を軽く叩き、反応を待つ。
家主は別にいいと言っているが、流石に我が物顔で勝手に入っていくわけにはいかないだろう。そんな暴挙、今まで許されてこなかった。物音がし、ぱたぱたと足音が近寄ってくる間に、先刻の事を振り返る。
手間なのは説明だった。何せ私たち以外、状況を忘却してしまっている。何と戦っていたのか、そして何故村長の腕が失われてしまっているのかも。
実際に身体を損傷しているのに加え、説明出来る者が三人もいたのがまだ救いか。もし私だけであったら、これまでと同じように笑い飛ばされてしまっていただろう。
それでも皆が半信半疑だった。恐らく忘却したことで信じづらくなってしまっているのだ。巨躯の彼がそうだったように。魔獣に襲われ、村長が腕を失ってしまった。忘却の魔法により、きっとそのような解釈にしか至れないのだ。
魔獣の存在、それを認知してもらえるだけありがたく思う。そういった経緯で、現在入り口には自警団が警戒をしている。初めは私と長鎗の彼女が警護に当たるという話であったが、今まで戦闘していたのだから休んだほういい。そう言われて、最後は彼女が折れる形で引き上げてきたというわけである。
一つだけ、気になることがあった。
忘却の魔法は放たれたが、ロラの魔獣に対しての記憶は消えてしまうのだろうか。前回は私が防いだと言われたが、いま一度忘却が発動された場合、魔獣のことは覚えているのか否か。
魔獣はロラの両親の仇、の可能性がある。それを忘れてしまうというのは、果たしてロラにとって幸運なのだろうか。
考えていると、ほどなくして扉が開いた。
「騎士様! お疲れ様、わざわざノックなんてしなくていいのに」
いえ、そういうわけには。そう言ってかぶりを振る。
あたたかい笑み。例えるなら、温暖期の銀色に光る湖。しかし角に雲が翳るような。ただきっとそれは、ロラの様子を訝しむ私の感情の陰りなのだろう。
「えっ、今日いつもより早くない? 何かあった?」
胸を突かれるような感覚。たしかにそう聞くのが至極当然だ。しかし探りを入れるような言葉は持ち合わせていないため、正直に答える。
昼とも夕方とも違う、微妙な時間帯。
だが倦怠が苔のように生えている。恐らく先日に感じた、意識を失くしたあとに感じた気だるさと同じようなもの。あれほどの規模の魔法を受け止めると、私の中に在る何は死滅と同然の倦怠疲労に至るのかもしれない。
草のような息を一つ吐く。
「んー? 騎士様、もしかしてお疲れ?」
それだけで、見破られる。
「いいえ、平気です」
内心ひやりとしながら、虚勢を張る。いいや、平気でなければ私に価値はない。それこそ、これから戦闘を開始できるくらいには。ただもう一度、あの魔法を受け止めろと言われたら、きっとまた気絶に至るだろう。
「それより」
誤魔化すように、話を逸らす。
「いつもは整頓されているお部屋が乱れております」
私ではなくロラの話で、済し崩し的に話を進めていく。
「えっ、ごめん騎士様。騎士様が帰ってくる前には片そうとは思ってたんだよ?」
そうやって、いたずらっぽく笑う。
ロラの家は基本的に整理整頓されている。私がこの家に厄介になった日も、常日頃から使っていないと言う二階は塵一つなく、それこそ掃除されていたほどに。
だが最近、散らかっている光景をたまに見かけるようになった。それはここ数日、魔獣の襲撃から特に頻度が上がったように思う。初めの何度かは、私の頭上をすうっと通過していた。あまりに滑らかな通過だった。
しかし、流石に違和感に思う。今までそんなことはなかったのだ。
ただそれを気にせずにいた。私は気だるさを誤魔化しながらも、一度聞いておかねばと思うことを聞いたのだ。そしてロラは飄然とした態度でそれを躱す。
何をしていて、どうして片付けをする余裕がないのか。それを聞くことが出来ない。いま誤魔化している私が、それを強く質す権利はないのだ。
「ねぇ騎士様、魔獣は逃げて行ったんだよね?」
「はい、排除まで至らず申し訳ございません」
「ううん、騎士様が無事でよかった」
微笑み、しかして腹部に何かを隠してじっと抑え込んでいるような表情。いや、私がロラの挙動に敏感になっているだけだろう。
家に入ると、いつも以上に物が散乱していた。本とフラスコ、それに鍋。魔法液の制作だろうか。
簡単にそれらを片付ける。ロラは後に自分でやると言っていたが、私が整頓し続けていると結局自らも参加していた。
そうして、いつもと同じように整理整頓されたダイニングを見届けたあと。私は少し早めの休息をとるために二階へと上がった。