いつの間にか眠っていた体は、まだ温かい泥の中にいるような感覚だった。万全ではなく、頭半分は強引に起こされたように重い。それでも無理矢理に起こす。
窓から入る朱を含んだ紫陽花色みたいな光が、夜に訪れつつあることを知覚させた。
体を軽く動かす。相変わらず体は気だるく、それにも関わらず思ったより体は睡眠を取ってない。数時間といったところか、先刻よりは些か軽くなった気がするが、十全とは言えない。
思い返す。
ダイニングを整頓している間、軽く会話を交わしたが、どうやらロラは魔獣が狼であることを覚えていないみたいだった。それが幸か不幸かは分からないが、ともかくそうらしい。
いつも防衛の詳細など聞かなかったが、今回は耳を傾けていた。ロラはたびたび薬草等を取りに村の外へ出かけるため、恐らくは不安からだろう。とはいえすぐに出かけたりはしないだろうが。
私は魔法など縁がないため、魔法書など読まないが、印象に残ったのはとにかくその量である。本棚から出ていたということは、当然使用するために引っ張り出されたのだろう。だがそれは、テーブルの上に山を作り、何冊か床にも落ちていたほどであった。
魔法液の制作には、それほどの書が要るのだろうか。いいや、以前までは本など出ていなかった。読んでいたのかもしれないが、きちんと本棚に収まっていた。
書が大量に必要な理由は分からない。私は本など読む機会はなかった。精々報告書の束くらいだ。
ただそれらが、普段のロラより少しだけ様子が違った風に見せた。魔獣の記憶がないのにも関わらず、ということは薬師の依頼だろうか。それにしては、散らかっていた様子からも分かるとおり、やけに余裕のない状態に見える。
魔獣といえば、そちらも不可思議だ。
油断させるため、人に化けて現れた。というのは分かる。だが何故白い髪で姿を見せたのだろう。前回の様子から、私が長鎗の彼女に虐げられていない様子を見て、か。
たしかに、茶髪で訪れるよりは村人が集まってしまった。魔獣の目的がフリストレールの人間を殺すのであれば、それは合理的にも思える。
だがあの姿。
どこかで見覚えがある。
白髪で見知った者などこの国に存在しない。ならばどこであの顔を見たのか。
はっきり思い出そうとすればするほど、陽炎のように掴みどころのない不確かな記憶。
この目で見たことのある白髪など、一人しかいない。この村に来る途中の列車で出会った、異国の彼女。だが、それだけは違うと言える。あれは男だった。
記憶の引き出しは錆びついていて開かない。
そもそも、何故私はあの者に覚えがあるのだろう。この国にはいない白髪だ、会っていれば彼女のように印象に残っているはずである。
もしくは、あの白髪の人物は白昼夢で登場しただけで、出会った気がするだけなのかもしれない。でなければ、見たことがあるというこの感覚を説明が出来ない。
だが生まれてこのかた、夢の記憶などない私には、それすら。
……。
望郷のように思い出す。
ああ、そうか。
この既視感の正体はこれか。
答えが氷めいて透き通って私の目の前に立ち並ぶ。
勤め先の工房。
王様。
真実であるかどうかは度外視して、それが一番納得のいく回答である。夢のことなど当てには出来ない。だが目の前の霧を取り払うには、そう理解するほうが一番早かった。答えを確かめるには、魔獣の後を追う必要があるが。
あの凶夢から目覚めて、私は心配したロラに声を掛けられたのだ。物音で起こしてしまったかと問われ、そんなことはない、そう返したと記憶している。
朝餉をどうかと誘われ、そこへ兵士が来訪したと横槍が入ったのだった。
そういえば、ロラは何をしているのだろう。先刻から物音がなく、まるで気が抜けたように静かだ。
どうも身体が熱を帯びてざわつく。
杞憂であればそれでいいのだ。思って、階段を下りる。
だが一段一段足を下ろすたびに胸が掻きむしられ、事の兆しを感じられた。何か説明出来ぬ力が働いて、事が引き起こされようとしている。
不確定なものは嫌いだが、しかしそれではこの不快の念は取り除けない。この目で確かめるまでは。
ふと、扉を叩く音があった。
軽く、丁寧に鳴らされた様。
それに、本来反応するはずの家主が対応することはなかった。眠っているのだろうか、それならば説明も出来る。
もう一度、今度はどことなく強めに叩かれた。
しかし少し待ったところで、ロラがその扉を開けに行く様子はない。予感が、瞬時に体中を駆け巡る。私は即座に階段を駆け下りて、来客を出迎えた。
「……騎士様?」
予想した者とはちがうものが出てきた、という表情。長鎗の彼女も、きっとロラが出迎えてくれるつもりで開く扉を待ったのだろう。
しかし現れたのが私だったことから、まるで夢から覚めたかのような表情を見せた。
「リーデ様? どうされたのですか」
「……ロラさんはどうしました?」
周囲はこんなにも静かなのに、雲や微かな風、それによって彼女が手に持つランタンが揺れて、くすくすと意志を持って哂っているようだった。
何か悪い事を期待しているみたいに。
「いえ、家にはいらっしゃいませんが」
返すと、長鎗の彼女は眉に皺を寄せて困ったように細かい息を吐いた。「そうですか……」考えあぐね、視線を伏せる。だがすぐに私へと視線を向けると、その表情はひどく厳粛した顔つきだった。