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episode35 友人

 それに気づいたとき、脳内に鋭い衝撃が走った。


「ロラ!」


 思わず、叫ぶ。

 整備はされておらず、辛うじて人の歩く場所が存在する一枚岩。その上から、捜索していた人が降ってくる。

 一瞬、思考が止まりそうになった。だがしかし、頭を回転させずとも、反射的に肉体へ出された指示が私を動かす。

 ランタンをその場で手放し、体の落下地点へ素早く駆けると、受け止める。

 重々しい衝撃が、腕を揺らす。

 それなりの高さから落ちてきたらしい。もしかしたら、私のタイミングが悪ければ、そのまま叩きつけられて死んでしまっていたかもしれない。

 そんな腕の痺れ。

 息が詰まったかのように、私はその場に立ち尽くした。何故、ロラが上から落ちてきたのだろう。どうして、いつもの洒落た装いがところどころ破れているのだろう。

 その散らばった疑問たちは、ある一つの仮説で急速に一つの形に収縮されていく。

 一枚岩の上層に、魔獣がいるからだ。

 心臓が一つ、大きな鼓動が打つ。

 その結論の尾を掴むと、体がきゅっと固くなった。眼には見えない、こわばりの波。

 もしかしたら、そのまま魔獣も降ってくるのではないかという危惧もある。しかしそれ以上に、自分はようやくあの狼と対峙するのだという、緊張感。

 村にやって来てから、少なからず縁があった。引き伸ばし過ぎたと言っていい。その相手と、とうとう対峙するのだと。

 だがその前に。

 いまはロラだ。彼女は死んだ者同様に意識なく、私の前に存在しているのだ。

 まさかこのままにしていくわけにも、ましては連れていくわけにもいかない。少し思考して、彼女は岩の陰に隠すことにした。長鎗の彼女に頂いた、フード付きの白いコートを身に包ませて。


「行ってまいります」


 誰が聞いているわけでもないのに、言う。

 深い意味はない。だが強いて言うなら、先日カタツムリの魔獣を討伐に出かける際、「いってらっしゃい」と声を掛けられたから。もしかしたらもう一度、同じ言葉が返ってくるのではないかと。

 牢獄で光明を待つような僅かな心持ちで、期待したからである。

 それから、血のように時間が流出していく。

 長く待ったわけではない。深く息を吸って、吐く。その程度。しかし都合よく目覚めるような事があるわけがない。

 出来れば魔獣と対峙するその前に、ロラと対話したかった。ただ、仕方がない。そう、観念して大きく溜め息を一つついた。


「騎士、様……?」


 虚ろな眼、土にまみれた装い。その喘ぐ呼吸は砂嵐のよう。先刻あっただろう戦闘が、如何に苛烈であったかを物語り、いつも身に着けている装飾品はいくつか割れてしまっている。

 それでも、たしかにその声で私を呼んだ気がした。


「ロラ!」


 すぐさま駆け寄り、膝を突き合わせる。

 狼狽の色を隠すことのできない、そんな声。追い立てられた小動物のように、平気なふりなどしている余裕はなかった。

 焦燥が頭をもたげる。

 口を開けそうにぼんやりとした表情。今にも夢に引きずり込まれそうな、そんな風。


「ロラ、無理をなさらず」


 いつものように、微笑んではくれない。

 代わりに、ロラの唇は寂しく震えており、目には零れない程度の涙がにじみ出ていた。

 仇敵に、体をぼろぼろにされてしまったのだ。無理もない。


「ここまで来てくれたんだ、ごめんね騎士様」


 震えを帯びた声は存分に濡れているように聞こえた。この人は、悔しくて堪らないだろうこんなときでさえ、私にごめんねと言うのか。

 私はそれに、「いいえ」とだけ口にした。

 火のように熱く眼で溜まったまま流れずにいた涙を、包ませたコートで拭う。このときほど、いつも持っている拭き布を持っていないことを後悔したことはない。

 その眼は綺麗で、はっきりとしていたが、すぐにまた涙がにじみ出て、堆く盛り上がりまるで二つの生物のように思えた。


「リーデは……?」


 約束をしたと言っていた。従って、この場に来るなら長鎗の彼女だと。そうロラが問うのは道理だろう。


「約束をした、というのはお聞きしました。ですが、私が無理を言って代わって頂いたのです」

「……なんで? 騎士様には関係ない話じゃん」


 力なく、歪んだ微笑。

 それはやや苦み走った笑みで、勝手に割り込んできた私に対して呆れているように見えた。

 あの魔獣には自分も縁がある、と言う必要はないだろう。仇敵の相手を横取りして斃す気はない。それは、あまりにもロラに不誠実な言葉と思った。


「魔獣が仇かもしれない、そう言った日からあなたの様子が変だということは、なんとなく察してしました」

「……負い目を感じて、ってこと? それこそ、あたしが勝手に出てきて負けたんだよ。騎士様が気にすることじゃない」


 何となく、ロラは話を早く終わらせたいのではと思った。早く終わらせて一人にしてほしい。苦いその表情から、そのように感じられた。


「いいえ、いいえ。私は、あなたが傷ついてほしくなかった。私は、ロラにはいつものように笑っていてほしい」


 目が、瞬く。驚き、という表情だ。

 自分の心内を吐露するのは、苦しく、息苦しく、知らず知らずのうちに声が小さくなっていくのに気づいた。それでもまるで口から腸を引き摺り出すかような気持ちで、言葉を紡ぐ。


「ロラ。あなたの闇は、私が持っていきます。泣かないでほしい。

 私は、あなたと


 友人になりたい」

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