途端。
轟音を響かせながら天上の岩盤が崩れ落ちてくる。
「さあ、完全に崩れないうちに」
言った魔獣の背に、岩石が降ってきた。それはとても巨大な岩で、降り注ぐ石礫によってたちまち魔獣の体は潰されてしまう。辛うじて頭は残ったが、時間の問題だろう。
しかし体だけ残して崩落をひと段落させる洞窟の、なんと意地の悪いことか。ただでさえ、私に心臓を一突きされて虫の息だというのに。
「はぁ、難儀なものだね。いまの落盤で死にたかった。でももう無理そうだ」
力のない笑みの中には、諦めの感情がこれでもかと内包されていた。
村長に斬りつけられ、長鎗の彼女の投擲を受け、私から心臓を穿たれ、天井の崩落で頭部以外が潰れ。そこまで負傷して、ようやく魔獣は力尽きるらしい。本当に、呆れるほどの生存力である。
「ああ、親方。ブロンシュ。やっと、そっちに逝けるよ」
謡うような小声で、口の裡でそう言った。
彼は地獄に行くだろう。従って、いま口にした者たちのもとに彼はいけない。だが、そんなことを言うのは野暮というものだ。五百年も憤怒してきたのだ、独り言くらい好きにさせていいはずである。
「ブロンシュ、というのは?」
親方、というのは鍛冶師においての師だろう。だがこの際に名の出るほどの存在が彼にもいる。それも五百年も忘れずに。それが、私には気になった。
「親方の子さ、とても仲良くしてくれたんだ」
慕っていたのだろう、その人を。
少し照れくさそうにする表情から、生前魔獣が懇意にしていたことが察せる。
「出来るなら、もう一度だけ会いたかった」
答えることはできない。
恐らくはそれは不可能だろうから。
しかし、遠い目をする魔獣に、とてもそんな無慈悲なことは言えなかった。大昔の事を、つい先ほどの事のように語る彼には。
その口ぶりから、分かっているのだ、魔獣も。
先刻の、そっちに逝けるという言葉は、きっと願望だ。
「国の皆も、迫害すると発表されてはいそうですかと受け入れたわけじゃなかったよ。皆戸惑っていた。それがどうだ、磔にされた僕や同胞たちに、ある日石を投げた者がいた。それで、タガが外れてしまったんだ」
他の者が攻撃しているから、自分も攻撃していいのだという心理操作。それによりどう虐げようが、どう憂さ晴らししようが、許される存在が出来てしまったのだ。
ふと、思いついたことが二つ。
一つは元々白髪を気味が悪いと思っていた者が第一投したという仮説。私が亡霊と言われ蔑まれる存在だ、なので、過去にもそう思っていた者がいてもおかしくない。人はその他大勢と違う点を攻撃する生き物でもある。それにより、気味が悪いと排他していく。迫害は、そのちょうどいい機会だったということだ。
そしてもう一つ、兵士が隠れて投石したのではという考え。今まで共に暮らしていた存在だ、それを突然迫害しろと言われても躊躇があってもおかしくはない。そこへ、兵士といういち存在が攻撃をしたことで虐げることを許可してしまった。
恐らくは独断か、上層部からの判断。
もちろん、これは私の脳裏にぱっと浮かんだ思考であり、何が正しいかは分からない。そしてそれを知るのは、当時から未だに存在するという大臣だけだ。
そのとき、再び天井が崩れ落ち始める。
「さあ、もう行って。僕たちの憤怒を、君の命と共に持って行ってほしい」
雪崩めいて、岩石が降り注ぐ。これはもう、立ち去らなければ入り口が塞がってしまうだろう。
何も言わず、背を向ける。
最早受け取らねばならない言葉はなく、言わなければならないものもない。ここで礼をするのは、どこか違うのではと思った。
爪を抱え、入り口に向かう。
既に広間は崩れて塞がってしまい、魔獣は岩盤の下に埋まってしまっている。ここは一枚岩だ、下手をしたら私だけではなく近くに待機しているロラも危険だ。私を待っていたから崩落に巻き込まれた、というのは避けたい。
一心に足を動かし出口を目指す。その一歩一歩を出来るだけ素早く前に出すことで、ロラの生きる確率がわずかに上がっていくのだ。
心臓が逸る。
元々じとっとしていた空気が、舞い上がる土煙でまるで沼にいるかのような湿度を出現させていた。そしてそれが、汗をしとどにさせる。
遺品を持っていなければ、岩々を砕いてもう少し余裕のある疾走ができるのだが、そうも言っていられない。いいや、この程度の重量、これまでの経験に比べれば何てことはないはず。
道筋だけ考えて、足を前へ。
出口を塞ぐように降ってきた岩を蹴り砕く。
そうして、私は洞窟を抜けると、外の風景を感じることなくそのまま崖を飛び降りた。
決断に至る猶予すらなく。高さにして昼告の高台よりもさらに高い。恐らく無抵抗に落下を受け入れるだけならば叩きつけられて死亡するような、そんな高さ。
断崖を滑り降りるようにして降下していく。ほとんど小石が落ちていくのと同じ速度で。降りるのを早くすると落ちることになるため、ある物で落ちる速度には抗わなければならない。それが断崖という話である。悠長に一枚岩を降りていく余裕はない。一気に降下するには、こうする他ないのだ。
幸い、多少無茶をしても平気な体に育てられた。ある程度落下速度さえ押さえることができれば、そのまま飛び降りても問題ない。
烈風が絶えず颯々と音を立てて全身を貫いて、まだ私が通り過ぎていない空間を渡っていく。
地面が近づいてくる。
壁を蹴った。
飛んだ時。地面に落ちていく瞬間、いやにはっきりと見えた。辺りに転がる石礫や、ここまで逃げてきた道のりで垂れ流した魔獣の血。とにかく周辺の風景が、しっかりと。
そして、私のコートに包まるはずの友人がいないことも。
「ロラ!」
着地と同時に叫ぶ。
辺りをぐるりと見渡すが、本人どころか私のコートすら影も形もない。
途端に感じたことのない、焦りと不安。
「どこにいるのですか、ロラ!」
焦燥が駆られる。
この場所と時刻だ。害獣、ないし魔獣に襲われてもおかしくはない。辺りに人が流す大きさの血痕はなく、痕跡は見当たらなかった。
大声で呼びかけるたびに、鼓動が早鐘を打つのを感じる。
一枚岩が崩落する可能性から飛び降りてきたのに、危惧はあったとはいえまさか別の要因でその姿を消すとは。
爪を置き、大剣の柄を握りしめる。
同時。
一陣の風が舞い、それはやがて私の目の前に吹き荒れて人の姿を模った。
「騎士様!」
突然現れたロラを前に、私の思考が一瞬白いもやのようなものに包まれる。どうして風と共に出現したのか、そして、何故すぐに反応しなかったのか。
思考が再び動かすその前に、引っ張られる。引き寄せられて、目の前に彼女の顔がやってくる。
「よかった、無事で!」
そこでようやく、眠気が払われるように思考がはっきりと戻って来る。
唐突過ぎて事情が呑み込めないのは、相変わらずだが。
「ロラ、どこに」
「終わった、んだよね」
どこにいたのか、それを問う前に問われてしまう。そしてそれは、たしかに私の質問なんかよりも重要なことであった。
訴えるような、頼りなげな眼差し。
「はい、魔獣は息絶えました」
答えると、安堵したようによかったと呟いた。
彼女の陰りは、完全に取り払われたわけではない。敵である魔獣が死んで、それで両親が帰ってくるわけではないのだから。
だがロラのほっとした表情。
それで、私は目もくらむような安堵感が身内に広がったような気がした。
「ロラ、今までどこへ」
「ごめん騎士様、風になる魔法で隠れてたんだ。実は村の見張りもこれで抜けてきたんだよね」
子供っぽく、頸を縮めて笑う。
こちらは戻って来て、それでいていないものだから心配したというのに。彼女は焦燥している私を見て、わざと反応しないことで笑っていたのだ。
ただそれも許してしまう、それくらいの安心感が湧き出たのも事実である。
「ねえ騎士様」
ふと、ロラが呼ぶ。
「はい?」
それに、ロラは恥ずかしそうに顔をゆがめて笑った。
「友達、なんだよね?」
「……えぇ」
「えっと、名前で呼んじゃ駄目かな」
思いがけない言葉だったので、すぐには言葉が出なかった。しかし少し考えて、私は問題ないことを告げる。
「えへへ、やった。
ねえ、エメ」
「なんでしょう?」
「あたしの手、握ってくれてありがとね」