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第三章 色天の聖女

 胸の前で両手を握りしめて、お祈りをする。伏して祈る、修道服を纏う女性の石像へ。


「主よ、どうか今日も我らを見守りくださいますよう」


 心の底からではなく、事務的に。唱えた言葉が、舌先に砂のように苦々しく残る。私は信仰者ではないが、それでも、ここではそう振舞わなければならない。

 警戒心を燻らす。

 後ろから、石畳の上をかつかつと歩く音があったからだ。


「とても敬虔でいらっしゃいますね。どうです、改宗なさいませんか」


 湧き水のように澄んだ声。儚く、まるで鈴の音みたいによく通る音だった。


「申し訳ございませんが、祈るものは持たない主義なのです」


 聖職者の前で言うのは少し憚られるが、しかし、祈るだけでこの白い呪いから解放されるのならば疾うの昔にそうしている。それならば、私は神を信じるよりも剣を揮うことを選ぶ。


「なるほど、信念の強制はできませんからね。残念です」


 振り向くと、彼女は右の頬に軽い微笑を浮かべていた。

 ついと、長いブロンドの髪が揺れる。

 間違いなく微笑みでありながら、その艶めいた雰囲気のせいで、まるで打つ手を間違えた途端即座に捕食されかねない蠱惑的な表情に見えた。


「従者の御方とは来られなかったのですね」

「はい、彼女は別の用がありましたので」


 嘘であり、しかし虚偽ではない。

 用は頼んではいないが、連れがここにいないのはあちらの用で行動を共にしていないだけだ。

 嘘をつくならば無色透明の嘘をつきたい。少しでも混じり気があれば、目の前にいる彼女に見透かされてしまうだろう。彼女の眼に、澄んだ湖のような深みと神秘性を感じるがゆえに。


「そうですか。あちらは主人とは違い、あまり誠実な御方ではないようですね」

「役目はしっかりと果たす方です」


 否定はしない。

 なぜならば、普段の行いを見るに決して真面目な性格なわけではないからだ。そして、投じた言葉は嘘ではない。彼女はちゃんと、仕事はやってくれる人である。まあ、さぼり癖があるところは難ではあるが。


「それで、主人の傍にいらっしゃらないであの御方は一体何をしているというのでしょうか」


 昆虫が翅を畳むかのように、長いよく整った睫毛を閉じた。もし彼女が、長槍の彼女のように真実を見徹す力を有していた場合、この旅路はここまでだろう。

 教会では武器を持ち込むことを禁止されているのだ。


「初めに話したとおりでございます」


 乾燥した喉に唾液を押しやる。

 彼女の言い様から、どうやら私たちには疑惑の念があるらしい。たしかに、私の言葉には偽りが含まれている。


「そのお言葉は、そのまま貴女にお返し致します。存じ上げませんと」

「あれを見た後では、そのお言葉は信用しかねます」


 投げた言葉に対し彼女の眉毛は少し上がり、上下の瞼がゆっくりと離れていく。その瞳には酷く冷たいものが感じられた。冷酷な剣を持って、冴え冴えした眼光で私を見据えている。


「やはり、貴女を警戒しておいて正解でした」


 途端、彼女の腰の辺りが赫奕し始めて、殺意が朝の海風のように胸を吹き抜けた。



 ◇


 テーブルをはさんで向かい合って昼餉を食べる。

 品数としては二品ほどだが、その実、彩りは食卓に花が咲いたよう。彼女の料理はこれまで幾度か食べてきたが、兵士であった時に無理矢理胃の中に押し込めてきたものとは比べるのもおこがましい。

 多種多様な野菜をトマトで煮たラタトゥイユに、じゃがいもの冷製スープ。

 芳香が家の中に立ち込めて、少し気持ちがほだされる。


「お昼付き合ってくれてありがとね。野菜いっぱい貰っちゃってどうしようかな、って思ってたんだ」


 午前中、警戒をしている最中にロラが訪ねてきたときには些か不意を突かれた。それは昼食の誘いだったのだが、私には歌うたいの昼告を見守る役目があるため、少し遅くなっても良いのならという条件で快諾したのだ。

 朝に近隣の者がバスケットに大量の野菜を積んで現れたため、それらが使われるのだろうという予想はしていた。だが興味があったのだ、あの野菜たちが一体どうなるのだろうかと。

果たして出てきたのは、レストランのものと比べても遜色ない二つの品。まあ、私はこの髪色のため飲食店に入れてもらうことは出来ないのだが。

 スプーンでじゃがいものスープを掬い、口に入れる。


「美味しく思います」


 率直な感想。

 私はロラのこの料理が好ましいと思う。クオリティも要因ではあるのだが、それでも決定的な理由もなく良いと思うのだ。


「良かった」


 そう、満足そうに顔をほころばせる。

 私としては流れる木の葉のように当然の言葉なのだが、ロラはそれを嬉しそうに手を一つ叩いて喜んで見せるのだ。

 ラタトゥイユのナスを掬うと、ロラと視線が絡み合う。見ると、彼女はまだ一口も料理を口にしていない。

 私のリアクションを気にしているのだ。

 気にすることでもないように思うのだが、とはいえ私がこれを口に入れないことには彼女は食べる気配がない。作り手に対し、それは流石に忍びないのでさっと口に入れることにする。

 しかし、それと同時。

 家の扉が叩かれる。

 叩き方は乱雑で、音の主に焦りの色が感じられた。


「えぇー? もう、誰?」


 ロラは口を尖らせながら、手にしたスプーンを置いて来訪者を出迎えた。

そういえば、どこか場面に既視感がある。巨躯の彼が私を呼びに来た時のことだ。偶々だとは思うが、妙に自分の胸がざわざわと波立つのを感じた。


「え、セシル? 珍しい、どうしたの」


 今日二度目の不意打ち。

 私が記憶する限り、双剣の彼女がこの家を訪ねてきたことは一度もなかった。


「騎士様は?」


 問いかけるロラの言葉が、触れられずに通り過ぎていく。恐らく、彼女にとってそれどころではないのだろう。そして、それは騎士であるにとって同意とも言える。


「お疲れ様でございます、セシル様。どうかなされましたか」


 彼女はいま、門番をする時間ではない。

 もしかして何か事があり、手が空いていた彼女が走ってのかもしれない。それくらいしか、双剣の彼女が私を訪ねてくる理由に見当もつかない。

 彼女が私個人に対し私用があるとは、とても思えなかった。そして、私としてもあまり得意という人物ではない。彼女は、どうしてか白髪があまりよくない立場であることを知っているからである。


「どうかなされましたか、じゃないんだ。隣の国に出稼ぎに行ったきり、夫が帰って来ないんだよ」

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