名前と聞かれて胸が動機を打った。
そんなもの、本当は招待などされていない私が知るわけがない。全身の血が冷えわたって、呼吸が微かに乱れているのを感じる。
「……申し訳ございませんが、貴方は?」
少しでもそれを答えなければならない瞬間を引き延ばさなければと、蟻のように可能な限りもがく。
「あぁ、ごめんなさい。申し遅れました、司教のザカリアです」
胸に手を添えて、慇懃に一礼する。
私は宗教面の知識が乏しいため、それがどちらの性別を指す名なのか。そしてどれほどの階級の持ち主なのか分からなかった。
「ご丁寧にありがとうございます。私は騎士のエメ・アヴィアージュと申します」
「おや、アヴィアージュと言いますと?」
「はい、叔父が外相を務めております。先代は父が」
私の言葉に、司教の中で心をかすめるものがあったらしい。
アヴィアージュという名に引っ掛かりを見せたということは、フリストレールの外相に応対したことがあるということである。それが現役の叔父のほうなのか、或いは義父のほうであるかは分からない。だがともかく、偶然にも私はこの話の引き延ばしに、脳内で閃光を感じたのだった。
まあ、それもわずかな時間であろうが。
「もしかして、叔父か父にお会いしたことが?」
「えぇ、どちらにも。同盟国から誰かがいらした際に、応じる役目を仰せつかっておりますので」
慮外の言葉であった。
この国の司教という役職は、フリストレールの官職に値するらしい。その容姿から、精々三十手前ほどであろうと推測していた。だが、義父が亡くなったのは私が兵の養成所へ入れられた、少し後の事である。
司教という役職が一体どれほどの年齢で就くことができるのかは不明だが、少なくともクラルスはここ最近建った国ではなく、何百年と歴史のある国家であることだけは知っている。
なるほど、ここまで若々しく在る者は、村長の奥様くらいだろう。
「あぁ、そういえば。先代の方が養子を取ったとおっしゃっておりました。騎士様、貴女がそうなのですね」
思いがけない言葉だったため、冷や水を掛けられたときに近い気持ちを感じた。義父が他国にそのような無駄話をするとは、とても思わなかったためである。子供がいないわけではなく、私のような気まぐれで取った養子の話など、まさか口外しているなんて。
記憶は少ないが、真面目で差別などしない人だった。だからこそ、訓練所の上官に初対面で蹴りを入れられたときの衝撃たるや。
「そうなのですか。何か言っていましたでしょうか」
ただ、私の中で好奇心がもぞりと動いた結果だった。自分のことを第三者から聞くことなど、白髪であること以外ではないと思っていたためだ。
「いいえ、あまり。ただ、自分が拾ってしまったことで苦労を掛けることを嘆いて御出でした」
「……そう、ですか」
この国で拾われてしまったことが、ということだろうか。たしかに私は、フリストレールという考え得る限り最悪な場所で拾われてしまった。
だがアヴィアージュ侯に拾われたから、私は清い身でいられる。貴方だったから、振るわれるものが暴力と陰湿な嫌がらせ程度で済んでいるのだ。
もしも一般階級の者に拾われていたなら、私は奴隷とした働き、慰み者になっていた。
どうか、憐れまないでほしい。いま私は、これで充分だ。
「騎士様」
ふいに、双剣の彼女が私を呼んだ。
まさか彼女が口を挟んでくるなんて思ってもいなかったので、視線をそちらへ向けながらも思考が再び動き出すまで時間を少し要してしまった。
「お話中失礼いたします。パスカリス様がお待ちでは」
それが、脳内を再び動かすきっかけとなる。
彼女は思い出したのだ、出稼ぎの話を持ってきた者の名前を。疲労が滲み出すような安堵を覚えた。それこそ、慣れない会話での時間稼ぎをした甲斐があったというものである。
「パスカリス……、あぁ。我々が外壁の修理を頼んだ者がそんな名前だったと記憶しております」
司教の言葉に、彼女の夫がどのような作業をしていたかが脳裏に描けた。彼はカルムにおいて建設の役目を担っている。私がいつも使っている監視塔や、歌うたいが昼告を行っているヤグラも、彼が携わっているという。
パスカリスという者は恐らく、外部から作業ができる者を集めることを生業としているのだろう。
「そうなのですか」
「えぇ、案内致しましょう。この時刻だと恐らく礼拝の時間でしょうから」
有難いが、あまり良くない申し出である。
「礼拝の時間、ですか」
「えぇ。クラルスでは一日に一度、朝の十時までに礼拝をする決まりなのです」
教皇国家ゆえだろう。
だがしかし、その好意は私たちを不利にする。もしこのまま司教たちとパスカリスという者のもとへ行けば、まったく関係値のないことが露見してしまう。
「いえ、そこまでして頂かなくとも、場所さえお教えくだされば」
「遥々お越し頂いた騎士様に対して放置などできません。どうか我々に案内させてくださいませ」
危険が重苦しい空気のように立ち込めてきた。
ここで申し出を断るのは、とても怪しい。わざわざ司教が案内をすると申し出ているというのに、断る騎士がどこにいよう。だが是非と言うわけにはいかない。
「お願いします」という言葉が出掛かって、しかして寸前のところで喉の奥へと引っ込んだ。
聖職者の一人が懐から懐中時計を取り出して、司教に現在の時刻を告げたためである。その様子から、どうやら先用があるらしかった。
「申し訳ありません騎士様、先に予定が入っていたことを失念しておりました。失礼ですが、我々は失礼致します」
「そうでしたか。こちらこそ、貴重な御時間を割いて頂き感謝致します」
言いながら、心内のさざ波が鎮まっていくのを感じた。まるで海から引き揚げられたかのような、そんな安堵。
「礼拝堂は南の方角にございます。聖女様の像が建っていますので、すぐに分かるかと思います」