朝の決まりに関する流れを説明され、私たちは解放された。事情を隠していたため自由行動は許されるのか、という杞憂はあったが、問題はないらしい。
部屋を見回るように歩く。まずはこれまでのことを話すため、私たちはゲストルームへと戻ったのである。双剣の彼女はそのまま探しに出て行ってしまうのではないか、という危惧も懸念されたため、大人しく提案を呑んでくれたのは有難い。
気になるのはやはり姿を消したのはどうしてかということ。そして私がパスカリスに接触している間、何をしていたのか。クラルスへ来た理由を踏まえ、私に捜索を押し付けてどこかへ行ってしまったというわけではないだろう。むしろそれまで彼女のほうが積極的に動いていたことから、それはありえない。
いくら自体が進展しないからといっても、入国して一時間もしないで放り投げる程度の覚悟では困る。
「セシル様」
促すように、話しかける。
双剣の彼女はゆっくりと腰を下ろしながら、その得物をベッドの上に放るようにして置いた。
「分からないんだよ、アタシ」
ぽつりと。
まるで独り言ちるように。
「分からない、とは……?」
「騎士様と離れている間、自分が何をしていたのか。気づいたらあの大聖堂にいたのさ」
冗談でも言うかのように、口角を上げる。肝心な地点の記憶が綺麗さっぱり抜けているというのは、意図的と思わざるを得ない。記憶したくない出来事があった、とも言えるが、この世界には魔法という存在がある。
ただ嘘であってほしいのは、誰よりも彼女自身であるはずだ。手がかりと成り得るものだというのに、その手にはもう何も残っていないのだから。
なるほど、彼女らとの話を終えてすぐ捜索に身を投じなかったのは、意気消沈しているから、ということだった。心が土の中に埋没していくように。
「私と離れている間の記憶がない。ということですか」
力なく、項垂れる子供のように頷く。
それはまるでつい最近、カルムを襲撃した狼の魔獣が使用する忘却の魔法のようだと思った。自分の存在を忘れさせてしまう、恐るべき術式。
ただあの日、確かに私が彼の意志を受け継いだことで死ぬことを受け入れたはず。実は岩山の崩落から生き延びていて、別の国で暗躍しているなんてことは、あの様からしてないと考えたい。
ならばなおさら、彼女らの細工のように感じる。
「気がついたときには大聖堂の前にいた、というのは」
「目が覚めたみたいに、騎士様と離れた次の瞬間にはあそこにいたんだ。そしたらあの司教が『騎士様が探していますよ』ってさ」
タイミングが、うまくできすぎている。離れた直前にあの司教はいなかったはずで、気がついたら眼前にいるというのは。
意図して、大聖堂と司教は現れたのだ。疑心の渦がひたひたと広がっていく。
「セシル様、それは」
言いながら、ふと鏡台の引き出しに手を掛ける。戦場で敗走兵を追う際に、何か痕跡がないか探す。これはそんな癖の名残だった。
ただ、何気なく取っ手をつまんだその途端。
近くから、何かが這ったような音がした。それは明らかに、引き出しの中を音源としている。虫が歩いたような、かさかさという不快な木の擦れ。
どこかから入り込んだ害虫だろうか。ここは三階だというのに。だとしたら、一階は相当に相当な頻度で虫に悩まされているのだろうか。
「何の音だい?」
いつの間にか、双剣の彼女が立ち上がっていた。微かな音ではあったが、彼女はしっかりと聞き取ったらしい。
「どうやら引き出しの中に虫がいるようなのです」
こつこつと、確かめるように指で引き出しを軽く叩く。
「虫? どこからか入り込んだのかな」
「どうでしょう」
言って、開ける。
だがそこに、なにかがいる痕跡は一つもない。それどころか引き出しの中は新品同然で、まるで今さっき搬入されたと言われても納得できるほどの綺麗さであった。
「……何もいないね」
頭の上にはてなが飛び交う。たしかに何かが在ったとて虫なのだで、そこまで気にするものでもないのだが。
「……老化による軋み、ではないでしょう」
家具は劣化することでぎしぎしと音を立てるようになるが、目の前の鏡台は新品同然である。もし長年愛用されている品だとしても、ここまで傷一つない様ならば定期的にメンテナンスでもしていそうなものだが。
「変だね、たしかにアタシも聞こえたけど。……昔皇族の護衛をしていたとき、鷹を操る同僚ならいたけど、まさかね」
彼女が吐いたのは、その鷹使いのように虫のようなものを操れる者がいるのではという、そんな独り言だ。発想としては、たしかにあり得る。
ただ、虫は人に寄り添わない生き物だろう。
家畜や頭の良い生物が人と共生するのは分かる。だが、虫が思考して私たちの力になることなどあり得るのだろうか。
もし虫を操る物がいるとしたら、その者は暗殺者として非常に重宝されることだろう。証拠もなく、小さな毒虫によって訳も分からず死を与えることが出来るのだから。恐らくそれが可能であったなら、私たちは疾うに毒死している。
しかし、これまで私はカタツムリの魔獣になった人間を見た。世迷言だと振り払って、果たしていいものか。
「でも少し立ち直ったよ。騎士様は、まだ全然動いてくれる気なんだね」
部屋の中をうろうろしている様を見て、ということだろうか。何にせよ、動く気になってくれたなら何でもいい。怪しい匂いは、より一層強く感じられるのだから。
「セシル様。私にはむしろ、彼女らが一段と怪しく思えます」
「平行して探ってもいいかもね」
意見を一致させると、私たちはそうして再び彼女の夫の手掛かりを探すため、部屋を出た。