ここに住まう誰かを見つけに行くため、部屋を出る。
別に見知った者でなくてもいい、ゲストルームに蠍がいたことを知らせるだけなのだから。
石造の階段を降り、先刻比較的聖職者の行き交いが多かった一階の居住域へ向かう。あの蠍が仕込まれたものだとして、しかして今は関係ない。報告することに意味があるのだから。
靴音が、伽藍とした廊下に楔めいて響き渡った。
随分と大きく乱雑で、幅を利かせて歩いてくるように感じる。司教のようにしずしずとした風ではなく、のしのしと巨獣が森を行くように。
大柄のいかつき体つき。巨躯の彼に匹敵するほどの図体に、白いローブを纏う。それがひらめいて、余計に大きく見える。近づいてくればくるほどに圧迫感は強くなり、まるでゆっくりと波濤が迫ってきているよう。
奥からやってきたのは、そんな男だった。
聖職者の居住域という空間において、あまりに似つかわしくないその男。祭服ではなく筋骨隆々の晒された上半身にローブといういで立ちから、彼が聖職者ではないことが判断できる。
聖職者ではないというなら何者だろう。
思考しているうちに男はやがて私の目の前へとやって来ていた。
「客人か」
野太い、喉仏をあけっ放した低い声。
「フリストレールより参りました、騎士のエメ・アヴィアージュと申します」
軽く頭を下げると、対して男は「騎士?」という疑念の声を上げながら、丸太のような太腕を組んだ。
「もう少しマシな嘘をつけ、亡霊。それともオレが国を出てから法が変わったか」
肩を越えるほどある長い黄土の髪を垂らしながら、その頑丈そうで日に焼けた顔が私を覗き込む。
突然に獅子にでも出くわしたかのような慄きだった。まさかこんなところにフリストレールの者がいるとは、微塵も思わず足が釘を踏んだかのように竦む。脛から背へ、冷たいものがさっと私を這いのぼった。
亡霊、という言葉を知っているということは私のことを知っているのだ。白髪は虐げてよい、という常識を。だが私は男のことなどまったく記憶にない。最早全ての同僚の顔など覚えてはいないが、しかし、ここまで特徴のある体躯の男ならば覚えていそうなものである。
フリストレールの者ならば、名乗るだけ名乗り後は口を閉じているのが正解だろう。声を発するだけで暴力などすぐに飛んでくる。だが国を出たというなら、その必要はない。
「嘘はついておりません。お疑いならば勲章もございます」
胸ポケットに入った章飾を握る。借りた服であるがゆえ針を通せないのだ。
「許されているのだろう、クラルスにいることを。ならばオレがわざわざ言うことはない」
何か跳ね返すような冷たい嗤いが目の下に浮かぶ。
「安心するがいい。白髪など今のオレにはどうでもよいことよ。クラルスの民になったオレにはな」
移民、ということだろうか。なんにせよ、白髪に害がないのなら少しは安堵も感じられるというものだ。
「……ご厚情頂き感謝致します」
「いらぬ。ただの無関心よ」
そうだ。
フリストレールの民だからこそ、白髪は虐げる。狼の魔獣が見せてくれたあの夢が、そう言っていた。逆にそうではなくなった彼には、私のことを卑下する必要がない。
首都から遠い村人のように。金髪の彼のような移民のように。
ただ、私のことを虐げることのない者。それだけで、私には別の意味を持つ。
「お伝えしたいことがございます。近くに聖職者の方はいらっしゃいますか」
対話が成立するのである。
だがしかし、男は私の言葉を完全に無視し、霧のように黙殺するとそのまま横を通り過ぎていく。
まさにどうでもいいことなのだ、私など。男にとって同盟国の騎士など最早路傍の石が如く、気にも留まらない存在になってしまった。それほどに、心はこのクラルスという国に帰依しているのだ。
石畳を踏みしだいていく音が遠退いていく。
一つ、思う。
彼は聖職者ではない。身なりから推測できることだ。それなのに、何故この大聖堂を闊歩しているのだろう。
ここは私たちのような例外を除けば、聖職者がいるところだろう。男は移民である。この国に移り住んだということは、クラルスのほうが良いと感じたからだろう。
大聖堂にいるというからには、その理由は聖女にあるはずだ。ならば何故、男は聖職者ではないのか。もしかすると、移民は聖職者にはなれない等の理由があるのだろうか。
一つ言えることは、彼には話が共有されていないということである。会話から考えるに、私がクラルスにやってきていることは知らないようだった。もちろん彼は私のことなどどうでもよいのだから、わざと杜撰な対応をしたという可能性もある。
だが大聖堂にいる者には、恐らく私への対応は伝わっているはずだ。従ってこの国に帰依したというからには、男もそれに従う必要がある。
それなのに。
男はその指示を無視し、私を軽視した。
軽視されるのは別にいい。ただ、移民という立場でそれが悪い方向へ向かうことは想像に難くない。わざわざ教皇国家に移り住んでそういった立ち回りをするということは、クラルスという国ではなく、聖女という存在に身を投じたのだと考えたほうが自然だ。
当然、これは私が至った思考に過ぎない。
だが、私を無視してくれるというのならそのまま関わらないままでいてほしい。あくまで私は双剣の彼女の夫を探しに来たのであり、この国を相手取るために潜入しているわけではないのだから。