男の後に歩いてきた聖職者に事情を話すと、その蠍はどうしたのかと問われた。
被害はなかったかと聞く前に蠍の行く末を問うてきたことにまず疑念が浮かぶ。私が平気でいることで被害はなかったと判断したのだろうか、それにしては随分と落ち着いた返しだと思う。
まるで知っていたかのように。
全ての対応に対して疑心暗鬼になる。
殺した蠍を見せてくれないかと後ろを付いてくること、そして従者のほうは無事なのか聞かないこと。
何か教会のわざとらしさすらあるような気がした。どうして双剣の彼女を攫っておいて返し、普通でいるのか。階段の下で密談などいかにも聞いてくれ、という風ではないか。
魔獣を背中に乗せているかのように、いつ不意打ちされるか分からない。いっそ、あの日のロラのようにわざと不安を煽っていただけだと言ってくれればどれだけ楽か。
遠方からやってきた騎士をからかっていただけだ、そう言って既に見つけていた彼女の夫がすっと帰ってくる。
そんな希望は、しかし。
現実逃避でしかないため、後ろに付いてくる聖職者に注意を向けながら、私はゲストルームへ歩いて行くのである。
ただ私と聖職者が廊下を歩いているだけなのに、空気はどことなくピリピリしており、誰かが変な行動を起こせば瞬く間に崩れさりそうに思った。例えば後ろの聖職者が私を不意打ちしてきたり、或いは別の者が現れて敵意を示す。それだけで、薄く張り詰められたこの空気は敵地へと変わってしまう。
階段を一つ上がり、二階へ。
いいや、何かあるわけがない。
相手はたまたま声を掛けた聖職者だ。そう油断して葬られた同胞は何人も見てきた。
ましてやこの辺りに味方となる者はおらず、クラルスがその気であるならば絶好のタイミングであろう。双剣の彼女は部屋で待機しており、武器も携えていない。
石段を上がるたびに、掌に応えがある。時計の針にも似た脈動は、気をつけろと体が警鐘を鳴らしているのだと思った。
私も落とされるのだろうか。
双剣の彼女の場合は、本当に一瞬視界から離れただけだった。そのため、誰も見ていないこの場面は私を連れ去るのに都合がいい。
思っていると、やがて何事もなくゲストルームの扉前へと到達した。変わらず背中には人の気配があり、少しだけ心が解ける。別に殺意があったわけではなく、本当に蠍を確認しに来ただけなのだと。この扉を開ければ双剣の彼女だって待機している。
連れ去る気なら疾うに落とされているはずだ。
考えて、僅かながらに神経的な鋭さで緊張を感じながらゆっくりとドアノブを回す。
扉を開けた瞬間、落とされないかと、一瞬脳裏によぎったからだ。だがそんなことはなく、ゲストルームの入り口はすんなりと開き、双剣の彼女がまた行方知れずなんてこともない。
出迎えた彼女が、怪訝な顔色である以外は。
「誰も見つからなかったかい、騎士様」
問いの意図を図りがねる。
私は聖職者の者に蠍がいたことを知らせると双剣の彼女へ言って、こうして部屋まで戻ってきた。言った通り、聖職者を連れ立って。
それは彼女から見ても、確認できるはずだ。
またからかっているのだろう。
思って、踵を軸にゆっくりと身体の向きを変え、後ろにいるはずの聖職者を見た。
そこに先刻の聖職者はいなかった。
代わりに、白い水溜りのようなものが足元に広がっている。
本能的に、ゲストルームの中へ飛び退く。
「騎士様!?」
唐突すぎて事情が呑み込めない。だがしかし、その場に留まることが良くないことだけは感じられた。
部屋の中で、息を整える。
突然に現れた、この白い水溜りのようなものは何だと。そして、今まで後ろに気配を持って付いてきていた聖職者はどこへ行ったのか。
細かな霧めいて、私の視界を覆う。
平静に。
落ち着けと私に言い聞かせるごとに、では目の前の光景はなんだと脳内で別の私が訴えてくる。
明らかに、背後に立っていた聖職者の足元に白い水溜りはあった。ただそれは私が立っていた位置にも言えることであり、ではどうして私は呑み込まれていないのかという疑念がまた浮かぶ。
落ちる、とはこの事だろうか。
たしかに、こんな一瞬で姿が消失するならば、双剣の彼女が瞬時に行方知れずになるのも頷ける。
ずっと、足元に恐ろしい何かが潜んでいるような緊張感が付きまとう。双剣の彼女がこうして生きて戻ってきているのだから死ぬ、というわけではないのだろうが、それでも。
この国には、足元に一切の安心というものがない。
人喰い沼が、中空に蒸発していくようにして消えていく。まるで私たちの脳内も一緒に溶かしていくみたいに。
これが〝落とす〟。
村で日常的に見る奇跡と同じであった。その場にいないのにも関わらず、一方的に人を連れ去ることができる、まさに魔法と言っていい。
私を落とさないのは警告のつもりだろうか。これ以上嗅ぎまわるようなら、この聖職者と同じ目に遭わせるぞ、という。
恐ろしいのは己を信仰していようが、一切関係のない無慈悲さ。兵士ならばとても優秀と言えよう。戦場ならば多少の犠牲はやむを得ない場合はある。だが彼女は宗教者だ。兵士ではない。そして、味方まで巻き込む道理はない。
落とされた者はどう思っただろう。信仰故、本望だと言うのか。それともどうして自分を? と疑問視するか。
否、そもそも思うよりも早く、落ちていったという可能性のほうが高い。双剣の彼女は視線を外した瞬間にもういなくなってしまったのだ。思考する間すらなかった、とも考えられよう。
「……これが落とす、っていう奴かな」
鼓膜が変になるような沈黙を、双剣の彼女が破った。
「……恐らくは」
聞きはした。
しかしまだ見てはいなかった。
理解するには聞くよりも見たほうが早いというが、まさにこのことである。
聖職者たちの話から、落とすとはどういうことなのかはなんとなく理解できた。だが実際にその現象を目撃すれば、それがどんな恐ろしい奇跡なのかすぐに理解できる。
魔法。
あれは魔法だ。
「ずるいね、あんなの」
引き攣ったような嗤い。
呆れて、思わず低い声を出してしまう気持ちは理解できた。突然に足元に現れるそれは、この国そのものが人喰い沼のよう。お前たちなどいつでも捉えることが出来るのだぞ、という言葉が伝わってくる。
一度も、あちらから直接警告などされてなどいないのに。
先刻まで顕現していた白い沼が、意志を以て私たちに言っていた。これ以上嗅ぎまわるなと。
もちろん私が過剰に警戒してしまっている可能性もなくはないが、それでも。教会が私たちの存在を煩わしく思っているのは事実だろう。
それほどに、彼女の夫を返したくないのだろうか。単なる村人の、たまたま出稼ぎに来ただけの職人を。
記憶を消す術があるのだ。不都合があるならば滞在していた記憶を奪えばいいだけなのに。わざわざ帰さないということは、やはり彼自体に要因があるように思う。
それが私には分からない。
「騎士様」
双剣の彼女が、私を思考の渦から現実に引き戻す。
「どうしたものかね、さっきのあれ」
白い沼のことだろう。
本当に、どうしたものか。
私たちは聖女の気まぐれで攻撃を受けていないに過ぎない。正直なところ、こうして明確に警告されてしまっては連れ去られるのも時間の問題である。
私はそれに、石で刻まれたみたいに黙っていた。
回答が出せない。
あの人喰い沼を潜り抜けて、どうやって彼女の夫を探すのか。
牛のように押し黙っていると、やがて双剣の彼女が私の蒙昧を嘲るかのように、頬に嗤いを作った。
「まあ、そうだよね」
眉の間に、失望が翳った気がした。
彼女は何としても夫を探し出したいのだ、故に。何の回答も出せない私を置いて、部屋を出ようと歩き出すに至る。
「お待ちください」
対抗策もないまま出て行こうとする双剣の彼女を引き留めるため、声をかける。
その声には、しかし何の力もない。
微塵も力にならない私からの言葉など、彼女にとって聞く意味もないのだ。
だが引き留めないわけにはいかない。
仮にもう一度落とされて、彼女が再び帰ってくるという保証はない。そのときは今度こそ、夫と同じように行方知れずになるだろう。
村を出る際に協力してくれた巨躯の彼に、村の者に何と言えばいいのか。否、そもそも私はクラルスから出ることができるのかすら怪しい。
「今度はアタシが呼んでくる、騎士様はちょっと待っててよ」
聖職者を、ということだろう。
恐らくその言葉は嘘で、本当はそのまま自分の夫を探しに行くに違いない。無能な私など放って置いて。
「セシル様……!」
呼びかける。
しかしその歩みは止まらず、彼女が部屋を出ると共にゲストルームの扉は閉まってゆく。どう考えても、その光景はおかしいのに。何せ、彼女は扉には全く触れていないのだ。