扉が勝手に……?
脳内にその言葉が沸いて出たと同時、ゲストルームのドアは閉ざされてしまった。
滑らかに、ゆっくりと、音すらなく。恐らくそのため、双剣の彼女は背後で扉が閉じたことに気づいていない。いくら夫を探しに心が逸ろうとも、触ってもいない扉がひとりでに閉まったならば足を止めるはずである。
扉が閉まる音。それすら彼女には聞こえないほどに静かに、それは閉まったのだ。
空気はすぐに重苦しく立ちこめて、まるで街に魔獣が放たれたかのような危機を感じた。ここで双剣の彼女と別れてしまうには何かまずい、そう思う。直感的で普段なら否、と一蹴するところだが、状況は不可思議である。
すぐさま私は閉まった扉へ駆け寄ってドアノブを回す。だがしかし、向こう側に巨大な物が鎮座しているのかと思うほどにその扉は重い。
当然、鍵など掛かっているわけではない。
なのに、いくら押せども扉は開いてはくれない。
「何ゆえなのですか」
私以外いないはずの部屋で、背後から私を呼ぶ声がした。ぞくりと、私の背中を氷の舌に舐められたような感覚だ。
聞き覚えのある声だった。澄み透った、楽器でも奏でるかのようなその声色。
ゆっくりと、首だけ傾けて振り向く。
空気がしめりかえり、蛇の群れる洞窟のような澱みが充満した。おおよそ、聖女と呼ばれる存在が纏うことのないような陰気さ。
床には白い沼が展開され、水中から這い出るかのように彼女は現れた。
金色の髪が芒のように波打つ。
「何ゆえ落ちぬのですか」
冴え冴えした眼光で、私を射殺さんとする眼差し。彼女に何か無礼を働いたわけではない。だがその瞳は明らかに、冷たい焔を宿している。
「……聖女様」
呼びかける。
昏い来訪者に。
「本当に困った来訪者です。フリストレールはこれまで、出稼ぎの者を連れ戻しになど来ませんでしたのに」
あぁ、これは。水晶みたいな透明度で、なおかつ槍のような鋭さで、確信が私の胸を刺す。これまでも人を帰さないという行為を続けてきた、いわば告白のような言葉だった。
焔のように警戒心をくゆさせる。
いま、私は一切の武具を持っていない。
もし聖女が予測どおり魔法使いなら、たちどころに制圧されてしまうだろう。
「どうしてなのです。どうして騎士様は、わたくしの沼に落ちないのですか?」
麦畑に一陣の風が突き抜けていくように、言葉が私に吹いて過ぎる。
先刻の人喰い沼は、敵意を持って私に放たれていたことが判った。
しかしまさかこんなにも早く。それも国で聖女と崇められる存在が、真っ先にやって来るとは。
圧倒的に状況は悪い。
比武装状態に加え、私は首を傾げているだけだ。完全に身体を聖女の方へ向けているわけではない。まあ恐らく、回転させて完全に真後ろへ向きを変えれば、その瞬間に攻撃を加えられるだろうが。
「聖女様、どうされたのですか。沼とは」
石のように白々しい言葉。
なるべく諍いを起こさぬよう。もし戦闘となれば不都合なのは私だけだ。
「いいえ、見ていました。わたくしの子を殺生致しましたね? ここの者の会話に聞き耳を立てておりましたね?」
屍のような冷たい瞳。
見ていた、とはどうやって。
階段上で耳をそばだてていたとき、背後に誰もいないことはしっかりと確認している。あの場で、私を視界に捉えている者などいなかったはず。
そういった魔法があるのだろうか。
それに、
「聖女様の子、とは」
この国で、殺しを行った記憶はない。
もし数えるに値するならば、たしかに双剣の彼女が蠍を殺しただろうか。
「誤魔化すおつもりなのですね。見ていたのです、騎士様のお連れの方が我が子を串刺しにするのを」
あくまで事務的な口調で、しかしてその内容はまるで尋問官の訊き質しである。まさか双剣の彼女が、邪魔だからと私の見ていないところでこの国の者を葬ったとでも言うのだろうか。
否、聖女はいま串刺しにしたと言った。
まさか本当にあの蠍を我が子と呼んでいるのか。
我が子のように愛でている毒虫を私の背中に忍ばせて、これまでのことを見ていたとでも言うのか。蠍の目を己の視界とする、そんな魔法があるというのだろう。か
「……覚えがあるようで」
あまりに突飛した思考をしてしまったため、思わず眉根を引き搾っていたらしい。
「いいえ、ですが聖女様。従者が仕留めたのは蠍。人に害ある存在でございましょう?」
だが部屋に蠍が出た。
それは人が毒虫に対する普通の対応のはずだ。
まさか飼っている愛玩生物を殺した、なんて言葉を突き付けてくるのだろうか。いいや、それよりも危険性のほうが明らかに高いはずである。
「ああ、わたくしの二番目に大切なものを殺すなんて」
言いながら、片腕を前に突き出して翳す。
途端。
紙に水が滲みていくように。
私の足元で、瞬く間に白い沼が広がっていく。
蠱惑的な雰囲気を纏い、聖女はこちらを見ていた。私にはそれが、まるで糸に絡まった餌を見る蜘蛛のようにも思えた。
明確な、私への攻撃。
そう判断した瞬間、膝を折り跳躍する。沼は足元へのアタックであり、来ると分かっていればその場を離れれば躱せると考えたためだ。
だが人喰い沼はすぐに膨張して、私がベッドの上に着地するときにはもう蟻地獄が如く足元で待ち構えていた。
「逃がしません」
見えている罠に突っ込んで行くような、そんな感覚。ふわりと広がるロングスカートの裾が、蜘蛛の糸に絡まる紋白蝶のそれに見える。
深い淵に引きずり込まれるような虚脱感、私の中にふっと観念の風が吹いた。
自分の足を犠牲にすれば脱出できる、トラバサミのような罠とは違う。魔法に抗う術を持たない身では、ここまでだと。ロラのように風になる奇跡があれば話が違うのだろうが、生憎私は剣を揮うしか能のない凡庸である。
無いもので希望を持っても仕方がない。
胸の奥に小さな痛みが覚える。私は、これ以上貴女の夫を探すことに参加できない。私自身が拘束捕らえられるのはいい、どうせなんの価値もない存在だ。
だがカルムの騎士として村人の依頼を遂げてあげることができない、それだけが後ろめたい。
着地する。
心を引き裂くような後悔の念と共に。
鳥類の胸毛のように柔らかな掛け布団の感触。布団は着地により衝撃でふわりと舞い、そして乱れた形でベッドの上に再び敷かれた。
間。
ひたり、ひたりと。時間にしてほんの数秒が、まるで無限にも感じるほどに引き伸ばされたように感じた。
落とされた、というわりに私の眼前の景色は、いつまでも変わらない。
手を前に突き出した聖女と、足元には白い沼のような影。双剣の彼女のように、その場から別の場所へ引き込まれたようにはとても思えない。聖女は対応すら忘れて立ち尽くし、また私も何が何だか分からず、ベッドの上で膝を突いて呆としてしまった。
ぴくりと、聖女が瞠目する。
「何故、何故なのです。何故落とせないのですか」
焦立ち熱したように低い早口で呟く。焦燥が、突き出した指先の震えとなって現れる。
思考能力が戻ってくる。
どうしてかは分からないが、白い沼は不発に終わったらしい。発動している魔法が失敗するということがあるのかは分からないが、ともかく動く機会はここしかないだろう。
攻撃する手段が人喰い沼だけであるわけがない。
ベッドを蹴り、跳躍する。
あくまで無力化するだけで、制圧するつもりはない。ここは彼女が全ての国だ、変に痛めつけても立場を悪くするだけである。そのため、いまだけは武器を持っていないことが都合よく思う。
か弱そうな身体だからと考慮するつもりはない。
思い切り、全力で。
胸部への蹴り。
だがしかし、それは頑強な何かに受け止められたのだった。