一難去って、これからどうするべきかを考える。
否、そんな余裕はこの国では持ち合わせてはならない。聖女が部屋を出ていって、時間にして数分といったところか。
突然に荒々しく扉が叩かれたかと思うと、こちらが反応するより先に、力任せにそれは開かれたのだ。
「亡霊! 貴様、まさか害虫ごときに聖女様を呼んだのではあるまいな!?」
声が鞭のように私の頬を打つ。
狂信者スコルピオン。男は自身が信仰する聖女と別れたあと、恐らく私が害虫を駆除する程度で彼女を呼びつけたのではと、怒号を浴びせるためにわざわざ戻ってきたのだ。
「恐れ入りますが、聖女様はあちらから訪ねてきてくださったのです。決して呼びつけたわけでは」
だが、殴られる。
信じているものに真実を伝える事ほど、無意味なことはない。加えて私は白髪だ。口ではあんなことを言っていたが、今まで見下していた存在を、人はそう簡単に見直すことはできない。男はいま平静ではないため、奥底に眠らせていた卑下が目覚めたのだ。
「馬鹿めが、聖女様が貴様のような存在をお訪ねするわけなかろうが!」
叩きつけられる言葉の嵐に、私はあくまで無抵抗でいた。それが一番、手っ取り早い対処方法だからである。どうせ彼は私が言う言葉など聞きやしないのだ、ならば台風が過ぎ去るのを待つだけだ。
冷静になるまで暴行されればいいのだ、それで面倒事が発生しないのなら怪我など安いものだろう。
「あの方は至高の存在。差し伸べる手すらない、フリストレールの君主と違ってな」
いいや、フリストレールは私のような例外を除けば、困窮するような暴政はない。少なくとも、まだ首都にいたときにはそう感じた。
私の知る限りでは、いまこの国よりも栄えている国家は知らない。当然格差は存在するだろう。だが男が富の意味で救ってほしいのならば、わざわざ縋るのは聖女でなくともいいはずだ。それも心酔しているという域で。
クラリスも栄えているという区分に入るだろう。そのため、そんな国の頂点たる存在ならば人ひとり金銭的に救うくらい出来よう。だが理由なく、教皇国家の者が他国の者を受け入れ、援助などするだろうか。
つまりはそこに、フリストレールの王を卑下して、信仰するに値する理由があるのだと思われる。国を捨ててまでこの国へやってくる、導因が。
何度も、何度も殴りつける。
私が人よりも少し頑丈に出来ていなければ、その太腕に命を奪われていてもおかしくはない。背丈はがっしりしているといったほどだが、腕に関して言えば巨躯の彼に勝るとも劣らない。
彼もまた、村に野盗が迫ったときはその腕力で対処していた。あの腕を何度も振るわれては、大体の人間は息絶えるだろう。だがそれと同等とも言える力を、いまは私ひとりに振るわれている。
痛みはない。
ただ、顔中のいたるところが焼けるように熱い。まるで砂漠を進軍したときみたいだ。私の顔が整っていようがいまいがは構わないが、現在どうなっているかは少し想像しづらい。
男は何度か私を殴りつけたあと、ぴたりと止まり手の甲を撫でた。何度も撫でれば痛みも引くと信じているかのようだ。さすがにあの腕力でも、人を殴れば手の甲は痛めるらしい。
「何なのだ、貴様」
男は眉間に皺を寄せ、困ったように唸った。恐らくは、自慢の腕で何度も殴ったのにも関わらず、平気そうにしているからだろう。
だがそれを完全に無視し、主張する。
「申し上げます。恐れながら、決して聖女様を呼びつけたわけではございません」
口は動く。
どうやら歯が折れたり、口内が腫れあがっているというわけではないらしい。
「どうかご容赦を」
先刻まで彼女自らが奇襲に来ていたのだ。教会側としては、私を殺すことに何の不都合もない。
しかし男は、聖女が不当に扱われたとして攻撃してきている。加えて、恐らく男は教会が私を殺そうとしている理由を知らない。無抵抗で、なおかつ不当に扱ったわけではないと主張すれば、もしかすれば切り抜けられるかもしれない。
しかしそれを否定するかのように、腹部への掌底。
痛みはともかく。一瞬息が止まり、心臓を踏みつけられているかのような苦しさだった。
ああ駄目なのか、という失意から喘ぐような嘆息が出る。
それが不快に思ったのか、男はち、と舌打ちをして不機嫌になったことを知らせた。そして私の首を鷲掴み、そのままベッドへと叩きつけられる。
息が詰まると同時、状況が最悪になったことを感じた。組み伏せられて上に跨がれる、いわゆる馬乗りの状態になられたことで私の生殺与奪を握られてしまったからである。
「何故無傷なのだ、貴様は! なんと気味が悪い。聖女様に近づかせてはならぬ、殺しておかなければ!」
首を締める力が強くなる。
……本当に、教会が私を殺そうとしていることを知らないのか?
男は聖女と別れてから、すぐにここへ戻ってきた。むしろ、殺せと言われたので戻ってきたと考えるほうが普通ではないのか。そんな都合のいい考えしかできないほどに、思考が狭まっている。
狂信者には無抵抗は意味のない対処らしい。だがここで死ぬわけにはいかないため、この絶望的な状況から脱する術を考える必要がある。
喉が非常に苦しい。
熱い塊に塞がれて、息を吸うことも吐くこともままならない。窒息が、もうすぐそこまで来ている。
怒りの色を唇の辺りに宿し、こめかみから額にかけてはミミズのような青筋を迸らせるその男。完全に自我が飛んでいる状態であり、戦場でもしばしば似た光景を見かけた。
ただ、戦争で出会う狂乱者はかろうじて制圧できた。しかし男の場合、いくら腕に抵抗しようとも、その過激な絞殺からはなかなか逃れることができないでいる。男の強靭すぎる肉体と、そもそものポジショニングが最悪と言っていいほど悪いためだ。
頭が膨張しているのを感じる。いずれ破裂してしまうのではないかと思う。それよりも先に、意識を失うほうが早いだろうが。だが意識が離れていきそうになるのを掴み、抵抗を続ける。
本来馬乗りになられた場合、尻を浮かせて上半身を後方に反らせることで隙間を生み、体を反転することで切り返すのが普通だ。しかし男の場合、あまりにも押さえつける力が強いため、体を浮かせることができない。
意識が朦朧としてくる。
視界は靄がかかったようにぼんやりとし、最早私は抵抗し続けているのかすら分からない。
そうして。
最後に誰かの声が耳に蝟集したかと思うと、眼前は黒い幕がおりるように見えなくなった。