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第39話 その放射

 冬期講習の初日、いままで習ったことのない英熟語の授業。

 前置詞、副詞、まあとにかく「たったそれだけ」の違いを知っていく。

 どんなものかなと思っていたけれど、始まってみると、おもしろい。

 自分が目指している大学の過去問には、とりあえず見なかった分野だったけれど、

 英語長文を正しく理解するのに役立つんじゃないかと思った。

 英語長文の授業を受けていたとき、

 「小さなことにとらわれず、おおまかに把握しろ」

 と指摘されたのを今でも覚えていて、

 枝や葉ではなく木そのものを観察せよ、みたいなニュアンスだった。

 おれは木を観ようとしたが、結果は「森を見てるよ?」と指摘されたっけ。

 詩的な指摘は好みだったけれど、こまかいことも一度は体験しておきたくなったので、

 この英熟語の授業を選んだ。

 朝、いちばんのコマ。

 たしか冬期講習ならではの早朝時間だった。

 どちらかというと、受験目前の生徒に向けたカリキュラムだったと思う。

 おれは一年生だけど、とくに断られることもなく申し込めたので受けることにした。

 早起きはキツイと思いつつも、いやどうせ早くから起きて練習したりするわけだし。

 実際、いつもよりずいぶんと早く行動している。すごく気持ちいい。

 寒さは苦手だけれど、空気の冷たさは好き。

 マフラーまいて、ちょっと早歩きで来たから体が温まっている。

 息を吐くと白かった。

 いつもならハーと広げて吐く息を、今朝はフーと小さく唇を開く。

 フー、フー、フー。とリズミカルに歩くと、電車か汽車みたいな。

 ひとりの時間て、とにかく空想にひたっている。

 早朝特別授業、英熟語。

 いわゆる「一限目」の前に行なわれる、朝練的なコース。


 まさか、これほど広い教室で行なわれるとは。

 しかも、すごく生徒数が少なめ。


 だが、暖房はバッチリだった。

 いったいどういう暖房システムなら、これだけ広い亜空間を暖められるのか。

 うちの家なんか、すごく小さくて天井も低くてそれなりにストーブを使っているのに、厳寒。

 うらやましいぞ、この文明この科学、なんていうのかもうホントに。


 「となりいいかい?」

 と質問されて、おれはとまどう。

 まったく気配を感じなかった。いいもわるいもない、好きにすればいいじゃんか。

 「どうぞ」

 「うん、じゃどうも」

 隣は隣でも、同じ机というだけで左端と右端。間がある。

 しびれるように凍えていた指先が、いまでは体温を復活させて意気揚々だ。

 おれは、思う。

 この暖房で体を暖めるだけで、じゅうぶんに元を取れてるだろ。

 授業料は冬期講習費用とは別枠で追加だったが、父は承認してくれた。

 むしろ「そうか、やっとヤル気が出たか」と嬉しそうだった。

 そんなことを脳裏に思い浮かべ、そんなときどんな表情をしているのか自分では想像つかない。

 にやけたつもりはないけれど、

 「なに。なんか、うれしそうじゃん?」

 と言われる。少し離れているこの距離感、同じ机だから隣は隣。とはいえ小声で聞き取りにくかった。それでも不思議、ちゃんと耳の奥まで声が響いてくるのがわかった。

 「そお?」

 と、おれは答える。

 いや待て、相手は先輩かもしれないんだぞ。ためぐちに聞こえたら失礼だろ。

 そんなことも少し考えたが、時すでに遅く、ためぐち全開フルスルットル状態だ。

 「おお」と、彼女は答える、「うれしそうっていうか楽しそう」

 「楽しそう?」おれは答えながら聞き返して「まあ温かくてホッとしてる」と告げた。

 「わかる」彼女は前髪を少しいじりながら話す「眠くなりそうなくらい」

 「だよね」

 すると声には出さずに、うん、という感じで、うなづいていた。

 目が合う。

 いや、さっきから目が合ったままだ。

 いや、まて、なんだこれ、まさかどこかで知り合っているとかなのか。

 おれの記憶はカタカタ音を立ててメモリーを探るけれど、合致する人影は見つからない。

 と、なにげなくおれは自分の手に視線を移した。それから筆箱を見て、手にする。

 シャーペンにするか鉛筆にするか。どっちでもいいよな。

 で、視線を戻すともうすでに彼女は本を開いて読み始めているようだった。

 さっきの、あまりにも自然な目の合いかた。

 どきどきでもトキメキでもなかったけれど、とても気分を高揚させるなにかがあった。

 ふと、父の言葉を思い出す。

 いつかどこかの美術館で言われたことだ。


 なあ、世界でもっとも美しいものってなにかわかるか。裸だ、ひとの。それも女の。

 弱ってるとき、悩んでるとき、苦しいとき、そんなときは絵を見ろ。女の裸の。

 必ず、力が湧いてくるし、悩みなんか消えるし、痛みを忘れる。すぐに、次の行動ができる。

 美しさゆえの強さだ。写真でもいいけれど、絵画のほうが格段に上なんだぞ。 

 そして、「1枚選んでいいぞ」とポストカードコーナーで選ばせてもらった。

 なにもまとわず、壺を持ち上げて、あふれる水。

 明るさよりも暗さのある色だが、とてつもない光を放っていた。

 おれは自分の指紋がつかないように気にしながら、そっと持つ。

 これ。と、無言で。

 すると父が発した「これで昨日よりも強くなれたぞ」が、いつになく快活で意気揚々としていて、

 おれもつられてごきげんになった。

 その絵画と似ているわけではないが、なんだか共通点をおれは隣の彼女に感じた。

 くびすじまですっぽりおおったセーターといい、スカートからのぞく膝上はタイツに包まれている。

 裸なのは顔だけ、いや、もしかしたら化粧しているかもしれない。

 おれにはメイクの区別がつかなかった。

 でも、そうだとしても、目だけは裸だろう?

 おれはこのとき、思わず口にしていた。

 「裸眼ですか?」

 ん? という表情で、ゆっくり視線をこちらへ。

 目が合った、とても久しぶりな感覚になった。

 「んーそう、ね?」

 さらっと前髪が流れて見える。とっくりセーターの彼女は、ゆっくり、

 「うち、目だけは結構いいんだよねー」

 「ひょっとして、2.0」

 「ん、正解」


 そこで遠くの扉がバターン、続いて「おはよう」とふわっとした声。

 小脇に抱えた書類の束、あきらかに配布されているテキストよりも分量が多い。

 いよいよ授業か。

 「なんか先生すごいいっぱい持ってない?」

 と、隣から声。彼女は先生のほうを見ていたけれど、上半身がなんとなくおれのほうを向いて見えた。その角度、そこの傾き、さっきは感じられなかった胸元のふくらみかげん、一瞬でいっぱいの情報がおれの脳を直撃する。


 裸眼か。

 おれは視力いいほうだけれど、さすがに2.0は、ないしな。

 あ、そうか。

 外の空気の冷たさと、教室の暖かさが絶妙に体を刺激していて、そのうっすらと紅を浮かべたような頬。その頬が、あの絵画と似ているんだと気づく。

 ポストカードよりも、いま服を着て全身ありとあらゆる素肌を見せないでいる彼女から、おれはとても強大なエネルギーを受け取ってしまう。

 おそらく彼女は無意識だろうが、ひょっとすると無自覚ではないのかもしれない。

 だからおれは目が合ったら決して視線を移動させないようにした。

 おれが見ているのは、きみがいちばん裸なところ。

 その放射、ぜんぶ浴びてやる。


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