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第101話 なんとかしようぜ

まもなくわかることなんだけど、いわゆる「直感」がえるタイプのかたでした。


予備校のロビーだけでなく、それ以前から市立図書館の自習室や駅前商店街の書店でおれを見かけたことがあるらしい。

おれの記憶とくに『鮮明な最初の記憶』は、予備校ロビーで見かけたこと、初めて名前と姿が一致して、声をかけたわけでもなく視線が交差して数秒ほど「誰」「誰」「なに」「何」みたいな空気が発生した日のこと。通り過ぎるだけで終わるはずだった出来事。

そもそも記憶に残ることなどなかったはず。それなのに、うっすらと覚えていた。


これは個人的な感覚だけど、

『思い出す回数が多いと、まるで会ったか、さまなくば会ったよりも強く印象に刻まれる』

そんな気がしています。

必ずしも「良い」とは限らないので注意が必要です。なにしろ、空想ゆえの妄想が発生する確率がきわめて高いので。

なお、実在する人物でありながら空想に登場する回数が増えてしまうと、勝手にひとり歩きし始めます。さらに妄想が混じるようになったら大変です、もはやモンスターになってしまいますから。


だから、いかに空想を少なめに、妄想を控えめにできるのかが、交友に問われると言っても過言ではない。おれはそんなふうに考えています。でも、自制は困難かな。だから宇宙の匙加減さじかげんです。いかなる空想も、一睡ののちには薄まります。どんなに猛毒な妄想だって、季節が変わるタイミングに毒消しされて土に還ってしまうものです。土用の期間に土いじりさえしなければ、たたられる心配ありませんから。


《》再会…というか、最初に、いえ『鮮明な最初の記憶』となるおしゃべりが実現されたのは、とある演劇の公演後でした。

文化祭ではありません。演劇部のひとたちと仲間たちによる定期公演。

そのチラシを予備校近くの電信柱に見つけて、なんとなく日程を暗記してしまい、その当日の昼過ぎに、

『そういえば今日の夕方だったよな、公演て』と思い出したのですよ『たしか四時からだったような』

正確には午後六時から。すなわち十八時。おれの記憶には「4」とか「6」がいりまざっていて、まあ遅れるよりはいいかな、と午後三時五十分頃に会場に到着しています。


会場入り口、自販機の近く、ひとりの姿がありました。

男性用のスーツだと思う。とても細身で、いかなる埃も弾き返しそうな光沢の靴、しなやかに揺れる裾、全身くまなく眺めてからなにげなく顔を見たとき、


『あ』


という表情。

あ?

まるで知っている誰かを見たときのような目です。

おれは『ひょっとして』と思いつつ『まさかな?』と感情を顔に出さないように心掛けて、


「こんにちは」


と挨拶しました。

挨拶のとき、発声のとき、おれは頭を下げない。むしろ背筋ピンとして絶対に視線をそらさない。これが結構なんていうか大変。


「…」無言そののち「もしかして観に来てくれたの」

あっけにとられたような表情、それにしても後ろで束ねた髪の黒々とした漆黒ぶりと天使の輪環わっかみたいなつやったらしさ。声もそうだけど絶対きみ女の子だろ。思っても、くちにしない。ていうか誰。イヤ待て、この子が話しかけているのは、おれじゃない。おれの後方にいる誰かだ。かといって確認のために振り返るのは、気がひける。そうなったらもう、覚悟を決めるしかない。演じよう、誰かを。おれはおれでありつつも、『仲の良い友だちが公演するので観客として来ました』という役を自分にあてがってみた。すると、すらすらと言葉が出てくる、


「ああ。準備バッチリって感じだね。いいじゃん!」

誰だよ、おれ。


すると、なにも持っていないはずの指先でタバコちょんちょんするみたいな仕草をしながら、


「なにそれ、おかしいの」

と笑った。嬉しそう。嬉しそう?

きみが誰なのか察しがついた。でも違和感がある。容姿ではなく、その態度に。


まあ、いいや。

このままズケズケと進めてしまおう。どうせ恥をかくとしたら、すでにもう恥をかいたも同然なんだし。

おれは知っている。ひとは、そうとは認識できないうちに自然と静かに恥をかいてしまうもの。恥をかいたと感じたときには手遅れなんだよ。たいてい、時間が経過して夜の布団で思い出す。思い出しながら『しまった』と無口に絶叫しながら恥ずかしくて恥ずかしくてしかたなくなる。


「もう始まりますか?」おれが問うと、

「まさか」男装の彼女が返す「まだまだ。まだまだだよ全然」


そうだっけ。

まあ、そうなんだ?


「誰かの紹介?」と彼女が問う「演劇部か生徒会か」

おれは少し小さめに首を左右に振ったかな、「電柱でござる」


彼女がいた。おれ、なにかおかしなこと言ったか。

まあいい、「チラシの絵すごくいいね」おれは告げる「大正ロマンっぽい?」


「あ、でしょ?」彼女が言う「わかる?」

「わかる」

「それ、そう、ねらったの。ねらったんだなーこれが」

演技なのか自然体なのか判断できないが、彼女は素直に話しているように見える。

あるいは、その服装に見合ったしゃべりかたなのだろうか。どういう演劇だろう。


「楽しみだよ」おれは言う「楽しみすぎてワクワクしてた、ゆうべ寝れなかったくらい」

「えー」驚きの感嘆であろうか軽蔑の眼差しであろうか「だめだよダメだよ駄目だよ~?」

なにがだめなんだよ。

「お芝居ちゅぅ、いびきかいて眠るなよ?」

思わず笑ってしまった「たしかにそれは失礼だよね?」おれは謝罪する「もしも寝不足で眠りこけたら本当ごめんなさい」

「いや」彼女「わたしも。よく寝たとは言えないし。それに来てくれただけで満点だわ」

その声は無機質に冷たく響き、初夏ならではの湿度が低めの暑さを蹴散らしてくれた。


どんな芝居なの。

おれが尋ねると、

『幕末っぽいけど架空かくうの時代、世直しのために立ちあがった少年剣士たちのサクセスストーリーよ』

とのことだった。


開演のブザーは汽笛な霧笛。

なるほど、サラリーマンのようなスーツに帯刀か。

登場するのは少年たちばかり。演じているのは女の子ばかり。

観客も、ほとんど女子。おれ、浮いてるかなあ。

でも真っ暗になったので周囲の視線を気にせずにいられる。

それにしても、この香り。いったいなんだろう。


ステージが終わっても、しばらく座ったままおしゃべりを楽しんでいる子が多い気がした。

おれは席を立ち、出口のほう、そこには演技の服装のままのひとたちと、制服のひとたち。握手をしながら言葉を交わし、手を離してからも会話が続く。なごやかでありつつ、とても熱い。

おれは、とある女の子の後ろに並んだ。漆黒のブラウスには、ミクロン単位と思われるような刺繍が施されていて、繊細さが鎧にも感じられる。

すばらしい。すばらしくて、すばらしすぎる。

思わず見とれてしまい、もうしばらく眺めていた後ろ姿だったけれど、おれの前から隣に移動する。おっと、おれの番か。

「とても素晴らしかったです」

おれは伝える、

「スーツに刀がお似合いです」

すると女優は握手を求めてくるような空気感を放ち、その導きに甘えるかたちでおれは右手を出した。

「ご高覧ありがとうございました」

と丁寧かつ明瞭な発音で言われると、おれは自分の滑舌かつぜつが恥ずかしくなる。

いやまあ、もともと恥さらしは覚悟のうえでここに来ているわけだから。

そう自分で自分に言い聞かせながら、少年たちの装いをしたままの凛々しき女優たちと短く言葉と握手を交わしていった。


彼女は、いない。

ステージでも見なかった。 


でも確かに彼女は、いま言葉を交わして挨拶している女優たちと同じような服装だった…はず。

外に出ると、「あ」という顔で彼女と目が合う。なんだ、いるじゃん。


出なかったんだ?

「面白かったです」おれは伝える。

「ありがとう」

「いい動きでした」

「うん」

「とくにあの」おれは言いかけて淀んだ、こういうのって言うのと黙るのとどっちが良かったんだっけ「砲台に」そう迷いながらも話してしまう「刀でつっこむとこ」


瞳孔の輝きは宝石だよ。

さっきよりも、顔が小さく見える。しかも、その頬。

どう考えてもリンゴよりも小さくて手に包めるわけがない頭蓋骨のサイズ。

おれは、両手で、はさみたくなった。

まるで八百屋に並ぶ旬の果実のようでもあるし、果実じゃない証拠に呼吸に合わせて胸や肩が穏やかに動いているのも見える。

「あの場面シーンね」彼女が照れたみたいに言う「わたしが書いたの」

「そうだったんだ。すごいよ。すごくて、もう、ほんっとに、すごかった。よかった」

「うれしい…ありがと」


スーツでも制服でもなく、私服の彼女が座っている。

よくかされたのがわかる髪は、うっすらとしたカフェの席でも天使の輪環わっかを見せてくれていた。


文芸部に入りたかったけど、演劇部の先輩につかまっちゃってね?

いまは台本を書くチームで戯曲の勉強してるの。

ひとりごとのように、けれども、おれに向かって話し続ける彼女に、

「すげえな」

ぶっきらぼうに答えるしかなかった。

たぶん、会話の相槌あいづちとしては最低レベルだったろうと思うし、ときどき挟み込む質問も場違いだったかもしれない。

「すごいな」

冷静に考えれば考えるほど味も素っ気もない反応だろうが、彼女は上演したばかりの興奮のおかげであろう、おれの目の前でとてもとても上機嫌に饒舌じょうぜつだった。


このすべてを録音しておきたい。

あるいは、せめてメモを取れるなら。

残したいのに残せない、ただ聞き流すだけしかできない自分にいらつく。

いらついて苛苛イライラすればするほど、おれは少し目を意識して、ひらいた。

宝石の瞳孔に対峙するには、野蛮な泥の塊をせめて鉱石と思わせたい。

ほのかに化粧されて整っている肌は、おれを別人に変えてくれている。

家に帰れば家族と喧嘩、そんなおれを、まるでなにか、暖かく迎えてくれる誰かがいるような感覚に。


通いたくなかった予備校に、いまもなお通い続けている。

親のいいつけなんて守れやしないよ、それにもういいかげん、うんざりだ。

だからといって、どうすればいいのかわからなくて、くすぶることさえできずにいる。

初めてだ、たぶん。おれは予備校に『帰りたい』と思ってしまった。

予備校なら、またこの子と会える。もしかしたら今みたいに話せる。

の、かもしれない。

そう思いついたとたんに、おれは『予備校に帰りたい』という感覚を実感する。

いや、帰る場所なんかじゃないし。住んでないし。むしろ、そこからそれぞれの家に帰るんだし。


「わたしね?」彼女が言う「実はさ?」ちょっぴり、うつむいた「えるんだ」

「へえ」おれは無意識かつ無防備に答える「見えるんだ?」

なにを。

なにが。

「で?」ちょっぴり今度は上目遣いに「ひょっとしたらなんだけど~」

ひょっとしたらなに。

「きみもじゃない?」

「見えるかどうかってこと?」

うんうんうん、と小刻みに首を揺らす姿は、カリカリ木の実をかじ齧歯目げっしもくの動物みたいだった。おれは応える、

「そりゃあ、まあ」いや待てなにを、なにが「見えるものは見えるよ」

彼女が実を乗り出していたのは気づかなかった。

すーっと身をひいて背もたれ側にやや体重を預けるようにしてから「やっぱり」

そして黙ったまま表情だけ喜ばしげに変えて「視えるひとだった」

ほんとうに嬉しそうだった。



おれは幼少期から父の実家のひとたちの影響で占いや運命学に触れる機会が多かったので、精霊や霊魂の話題に免疫があったんだと思います。

いわゆる「霊」が見えるかどうかは、わかりません。

自分が見えているその姿が、生きているひとなのか、そうではないなにかなのか、その区別がつかないからです。

「霊視」と呼ばれる処置を受けたことがあるのですが、そういう意味での「霊視」はできません。

未来も過去も現在も、自分も誰かも家族も友人も他人も、そのありようを把握するのが困難なのですから。当然ながら誰かに対して、いかなる助言も無理というもの。

けれども自分でもわかっていました。励ますことならできる。

その内容その概念その想起その真髄を正確に理解できなくても、

その労力その気概その闘志その経験を正直に賞賛できるのです。


だから「すごい」って平気に言えます。


一方、彼女は『あまり言うと周りが引く』というので日常生活では「ごく自然」「フツウ」を意識しているそうです。


彼女がえているのは、色。

空気の雰囲気の天気の色。

おれが見えているのは、おれが見えているもの。

自分にだけ見えているのかどうかとか、そう問いただされるとわかりません。

色は感じられます。

いま、うっすらブルー。なんとなくグリーンっぽい。なんだかピンクめいてる。

写真で残せる色ともちがうし、絵画で表現される色ともちがう、のかもしれない。


ゆっくりでした。

あの、いまや伝説となった『開国技士環陣傳かいこくぎしわじんでん』の初演日。

あのあと旧知の幼なじみのようにカフェでおしゃべりし、交換し合った連絡先で手紙のやり取りをして、予備校で会うとノートを交換しました。

ゆっくりです。

夏が過ぎて秋を飛ばして冬が来た、そんなある日のこと。

おれが『鮮明な最初の記憶』の日のことを尋ねると、


「あ。あれね、あのときね」と彼女。


実際『がん飛ばされてるなー』と思ったらしくて、

同時に『でもどこかで会ったことあるような?』というのがあったらしいです。

「なつかしい色。ひさしぶりって感じで」


それに対して『前世かな?』とおれが真顔で言うと、

「なにそれそうかもだけど、そういうのは言わない約束でしょ」

と笑って、その笑いかたが上品なお嬢様という雰囲気そのものに感じられました。


もともとの素質。

どのように育てられたかによる外見。

友だちとの交遊による後天的な変貌。

眠っていた本質。

こういった過程を成長と呼ぶことができるとしたら、

おれは彼女と一緒に過ごす時間のおかげで、

なにかとてつもない大切な色が、

この肉眼でも見えるようになった気がします。


だから「隠すこと」も覚えられた。

大事すぎて大事すぎるからこそ、隠し続けたほうがいいこともある。


でもそれはまた、あとの話。

まだまだ時間と経験と知識が必要でした。

鵜呑みにした知識が忘却によって教養へと昇華するように、多角的視野による多面体の理解には、さまざまな液体が必要とされます。


『血も涙もないのかと言われても、あのね、涙は血液よ。血から赤みがとれただけ』

彼女の言葉は理知的かつ論理的でありながら感情を含んでいて、おれにはポエムでした。

ポエムは声で命を得るのでしょう。

書いているだけのときでも、その声あの声この声が反響しています。


血を流し汗を湧かし精漿せいしょうを放ち子宮頚管粘液しきゅうけいかんねんえきと混ざるとき、もしかしたらようやく理解できたのかもしれません。

理解?

ちがうな。

なにもかもを付与されて、なにもかも格納しておきながら、やはりアプリの起動は現在の所有者がやらないと。パスワードの管理にも気を遣わないと。


簡単スムーズに使いこなせるようになるためには、やはり、その体あの体ゆえに、この体。

いちばん大地を踏みしめた足は沈黙し、運ばれていい気になってるだけの口ばかりが達者だね。

それでいい。

だからこそ。

おれは本気の夢を隠す。

現実に体感できるものとして実現させるために、おれはその日そのときその場所で与えられる役を、精一杯の即興とともに演じきる。

さあ、ぶっつけ本番だ、なんとかしようぜ。


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