―――話は数年前の過去に戻る。あれは秋の終わり、冬の始まりの頃だった。
帝国が大陸を支配するために軍を発し、各国へ宣戦を布告した年。初代皇帝ゼクス・マキューラスによる大陸統一事業の幕開けとなる。
北の国、大きな山の麓の下に栄えた小さな国アヴァロニア。人口は約10万と少なく、帝国の一つの小さな都市程度の人口でしかない。
北の奥地にあるこの国は他国から攻められるという心配はあまりない立地であった。そのため、国民の大半は平和ボケしていたといえよう。春は雪解け水を飲みに森の動物が集まり、夏には涼を求めて人々が遊びに来る。秋の収穫祭ではみんなが笑い合いながら食卓を囲み、冬の寒さも暖炉の前で家族と語らいながら乗り越える。みんなが家族のような存在だった。
この年、大地は雪と氷に覆われ、辺り一面、雪化粧となっていた。吹雪が毎日のように吹き荒れ、部外者の侵入を拒んでいたようにも思えた。
ある日のこと、吹雪は止み、久々の天候に恵まれ、太陽の光が差し込んだ。地平線がどこまでも見えた時、人々は恐怖する。
遠くから鉄のすれる音と共に角笛の音が吹き鳴らされていた。地平線を覆いつくすほどの黒き竜の印が入った軍旗が風になびき、全身黒色の鎧を着た兵士が馬に乗り行軍しているのだ。
それはまるで黒い津波のように見えただろう。まず初めに帝国軍の騎兵が土石流の如く、街中を雪崩れ込んだ。
街の人々は悲鳴を上げ、逃げ惑う。しかし、帝国の騎馬隊は逃げる住民達を蹴散らし、蹂躙していった。占領することが目的ではなく、最初から殺害と略奪が目的だった。道端には多くの住民が血を流し、息絶えた。
帝国兵が我が物顔で闊歩する中、一人の少女が目に涙を浮かべて必死に逃げていた。背中には矢が刺さり、左太ももには斬られた傷があった。それでも、足を止めてなるか、と足を前に出し、走る。
目の前にいる人々の間を縫い、時には押し退け、ひたすら走り続ける。だが、ついに力尽き、その場に倒れ込んでしまった。少女は悔しさに顔を歪め、声を押し殺して泣くことしかできなかった。
「どうしてこんなことに……」
母親は目の前で騎兵に踏み潰され、父親は自分をかばったことで、10人ほどの帝国兵士に槍でめった刺しにされた。それでも父親は最後の力を振り絞り、叫ぶ。
『――――逃げろ!!! シルビア!!!!』
その言葉で弾け飛ぶようにして、駆けた。弓兵が矢を放ち、背中に刺さるも、叫ぶ父親の声にまるで背中を叩かれたように感じ、痛みを忘れ、ただ走った。
背後からは剣を持った帝国兵らが追いかけてくる。まるで、鬼ごっこのようにゲスな笑い声をあげながら。
「ほらほら、早く逃げないと~」
「追いついちゃうぞー」
シルビアと呼ばれた少女は必死の形相で走り続けた。そして、街を離れ、丘を駆け上がり、雪化粧をした深い森の中へと入った。
下草をかき分け、擦り傷だらけになりながら、必死に追っ手を撒こうとして、奥へ奥へと入り込む。森はそれを知ってか、木々が生い茂る光が届かないほどの鬱蒼とした場所まで誘い込み、彼女を迷わせた。徐々に空気が重たくなり、足も前に出すのが辛くなってきた。もうすぐ体力の限界を迎えるかもしれない。
そう思った時、突然、開けた場所にでた。
見たことのない太古の遺跡がそこにはあった。遺跡の外壁は崩れ落ち、苔むしており、屋根は穴だらけになっていた。両側にある石の柱は風化が進み、朽ち果てている。一体、何のための遺跡なのだろうか。そう疑問に思いながらも、シルビアは誘い込まれるようにふらふらと歩み寄っていた。左右にある石造りのかがり火に火が灯る。ありえないことだった。手前から順番に点いたのだ。
ここに入れ。そう言われているような気がした。斜めに傾いた遺跡の入り口から冷たい冷気が漂ってくる。シルビアの頬を撫で、髪に触れていく。
「どこにいった?!!」
「探せ! こっちに逃げたはずだ!」
遠くから男達の叫び声が聞こえてきた。もう、時間がない。シルビアは意を決して、遺跡の中に入る。
中に入るとそこは廃墟が広がっていた。床も天井も壁も全て石材だ。薄暗い室内はひんやりとしていた。まるで氷の世界に入ったようだった。
奥の方には大きな石造が佇んでいる。その足元から青白い光が漏れ出している。光は段々と強くなり、部屋全体を照らし出した。
「これは……?」
シルビアは思わず呟いていた。それは、巨大な女神像だった。
美しい造形の女神像がそこに立っていた。両手を胸の前で組み、目を閉じ、天を仰いでいる。
シルビアはその美しき姿に見惚れた。思わず、吐息が出る。
「女神様……」
彼女は無意識のうちに呟き、膝をついた。両手をおでこにこすりつけ祈る。もう女神にすがるしか、方法がないと思った。奇跡でもなんでもいい、とにかく、この窮地から救い出してほしい。シルビアの願いはそれだけだった。
「どうか、どうか……私をお救いください。私の命などどうなっても構いませんから……。お願いします、女神様」
しかし、その願いは届かなかった。女神の像は表情一つ変えることなく、石像は冷酷なまでに沈黙を守り続ける。
女神とはなんなのか。慈愛に満ち、人々の悩みを聞き、助けてくれるものではないのだろうか。どうして、何も答えてくれないのだろう。どうして、手を差し伸べてはくれないのだろう。
シルビアの目尻に涙が溜まっていく。やがて、それは雫となって零れ落ちた。
「どうして……どうして助けてくれないのよ……」
シルビアは両手を地面につき、うずくまるように泣き崩れる。
なんて、惨めなのだろうか。どうして、こんなことになったのか。
女神の石造に問うても、何も答えは返ってこない。
その時、シルビアは気づかなかった。自分の影から這い出るように真っ黒な霧が噴出していることに。それはシルビアの身体にまとわりつき、ゆっくりと包み込んでいく。それはまるで、闇そのもののようで、シルビアの周りを覆いつくした。
そして、声がした。女性の声だ。
「ここに人間の子が来るとは珍しいねぇー」
驚いて振り返ると、いつの間にか、シルビアの後ろに一人の女性が立っていた。
人間にしては生気を感じないほど、肌は雪のように白く、吐く息にも色がなかった。凍えるほどの寒さなのにもかかわらず、女は白いローブと薄着だった。それでも、寒さを感じないほど、余裕を見せる。髪は長く、氷のように白銀に輝いている。目は血のように赤く、口元に笑みを浮かべていた。
妖艶な美女といった感じだが、シルビアは恐怖を覚えた。本能的に彼女を恐れていた。
「あ、あなたは誰ですか?」
その問いに女は笑みを浮かべる。
「あたしかい? そうだねー、あんた達の言葉を借りるなら、"悪魔"というべきか」
シルビアは耳を疑った。悪魔? そんなものが本当に存在するのか。
「冗談じゃない!! 悪魔がいるはずがない!!」
シルビアが叫ぶように言うも、悪魔は平然としていた。むしろ、面白そうにしている。
「あれれ、おかしいなぁーさっき、女神に助けを求めたのに、悪魔は信じない、というのかい?」
その問いにシルビアは言葉を詰まらせた。間違っていないからだ。自分は女神がいる、とこれまで信じていた。しかし、現れることはなく、存在しないのかもしれない、と疑った。悪魔がいるのなら、神がいないはずがない。悪魔の存在は神がいないことを否定することを意味をしていた。
シルビアは何も言えなくなった。悪魔の言っていることは正しい。だけど、認めたくはなかった。
「ふん、強情な娘だねぇー。まあいいや。それよりも、君、面白いねぇ」
「何が言いたいのよ」
「君は右手の甲にあるアザだよ」
悪魔という女は細いう指先で指した。シルビアは慌てて、右手を隠す。生まれた時からあったこのアザは女神の祝福を受けた証、勇者の血を引く者だと街の者達は話していたが、シルビアにはそう思えなかった。街人達はこのアザを見る度に悪魔の申し子ではないのかと不気味そうな目で見ていたのだ。だから、ずっと隠し続けていた。
慌てて右手の甲を隠す。その反応に面白く思ったのか、女神は笑みを浮かべた。
「やっぱり、あるんだ。 おもしろいなぁ。とても興味深いなぁ。女神の祝福を受けているのに助けに来ないなんてねぇー」
「…………」
シルビアは無言のまま、唇を噛む。悔しかった。自分では何もできない無力さが嫌だった。
「おや、まただんまりかい? ま、いいけどさ。あーそうだ。助けてほしいんだろ?」
悪魔は楽しげに笑う。シルビアはその笑い方が気に食わなかった。
「……何を企んでいるのよ」
警戒しながら、尋ねるも、彼女はただ微笑んでいるだけだった。目を細めて、何かを考えている様子だったが、視線を後方へとチラリと向けたあと、再びシルビアへと戻す。
「……あたしはどっちでもいいけど、このままじゃ、死ぬだけだと思うけれどねぇー」
彼女の言葉に、シルビアはビクッと肩を動かした。その通りだった。もうすぐ、帝国兵達が襲ってくるだろう。それまでに、この場から逃げなければ、命はない。
しかし、逃げるといってもどこへ行けばいいのか。シルビアは視線を泳がせた。