遺跡の入り口付近で、複数の足音が大きくなってきたのがわかった。
視線をそこへと向ける。
暗闇の中から何かが自分の方へと向かってくるのがわかった。
どんどん近づいてくる足音にシルビアは恐怖する。
鼓動が激しくなり、呼吸が荒くなる。
パニックになりかけるとその様子を見ていた悪魔はニヤリと笑みを浮かべ、いきなり消えたと思うと真横に再び現れて、耳元で囁いてきた。
「おやおやおや~誰かが来るよ~怖いよね~このままじゃあ殺されちゃうよ~」
『死』という言葉に反応してビクッと身体を大きく震わせてしまう。
「ふふっいいねぇその表情~怯えた顔も可愛いね~さぁどうしようか? 逃げないと殺されちゃうよ~」
殺される。
その言葉が頭の中を支配する。
「いや……死にたくない……」
シルビアは胸を握りしめ、後ずさりする。
「さぁどうするんだい?」
「……」
シルビアは黙り込んだままだ。
頭の中ではわかっているが、決断できなかった。
シルビアは悪魔が自分を誘惑していると思った。
どんな狙いがあるのかは知らないが、自分に何かをしようとしようとしているのは確かだ。
でなければ、こんなに付きまとわない。
迷っていることを悪魔は見抜いていた。目を細める。
「ふーん。迷ってるってわけかい。それなら、あたしと契約してみる?」
「……契約?」
「そう、あたしと契約してくれれば、君を助けてあげる」
悪魔が助けるというのだ。
嘘を吐く息のようにつく悪魔には気をつけろ、とよく言われていた。
自分の利益のためなら手段を選ばない。
自分さへよければ相手が不幸になろうが、どうだっていい。
「何を企んでいるの……?」
「何も企んでなんかいないさ。ただ、君が気に入っただけだよ」
「信じられない……」
「そうかい? でも、信じてもらうしかないね。信じてもらえないならここで死ぬだけさ。まぁ、あたしは君が死のうが、生きようが、別に構わないんだけどね~」
悪魔は冷たい口調で言う。
それは嘘をついているようには聞こえなかった。
シルビアは考えた。
このままでは殺される。
(―――だけど、悪魔との契約なんて……)
だが、他に方法がないのも事実だ。
シルビアは覚悟を決めた。
「わかったわ。あなたと契約する! だから私を助けて!!」
「いい判断だよぉ。なら、右手の甲を見せてごらん~」
シルビアは言われた通りに右手の甲を見せる。
すると、悪魔の手が伸びてきて、手の甲に触れる。
勇者の証と言われるアザが赤黒く光を放った。
じわじわと熱を帯び、痛みが走る。
「うっ」
シルビアは顔を歪めた。
悪魔は満足そうに笑みを浮かべる。
「これで君はあたしのものになった。さぁ、契約の代償として、君の願いを叶えよう」
その言葉と同時に身体中から力がみなぎってきたような気がした。
全身が凍るような寒さを感じていたのに不思議とその寒さが消えていく。
「どうだい、力を感じるかい?」
「ええ。感じる」
シルビアは自分の右手を見つめた。
今までとは違う感覚があった。
まるで、自分の中にもう一人の自分がいるかのような奇妙な感じだ。
これが悪魔と契約したことによる変化なのだろうか。
すると帝国兵らが現れ、出入り口を塞いだ。
帝国兵の中から隊長各の男が出てきて、ゲスの顔をしながら、ゆっくりとシルビアに近寄ってきた。
視線が悪魔へと向けられる。
色白の生気を全く感じさせない肌に漆黒の長髪。
そして、闇のように黒い瞳に紅い唇をした女の姿に眉をひそめた。
「貴様、何者だ?!」
「何者……何者ねぇ~。あたしのことを知らないとは哀れというか、無知は罪だねぇ~」
悪魔は妖艶に微笑む。
「なに?!」
「まぁいいさ。教えてあげようじゃないか。あたしの名前は“ベディゲル”。悪魔の一人さ」
「……ベディゲル?!!」
一人の帝国兵が目を大きく見開く。
「知っているのか?」
他の兵士が尋ねると、帝国兵は震えながら答えた。
「神々の戦いに出てくる化け物の中の化け物じゃないか……」
その言葉に全員が息を飲む。
神々の戦い、それは大陸がまだ出来上がってから、それほど経っていない頃の話だ。
天界の神と悪魔の両者が覇権を争い、長きにわたる戦いを続けてきた。
その戦いは最終的に神の勝利で幕を閉じたのだが……。
負けた腹いせに数千万もの人間の命を奪った悪魔がいた。
その悪魔は殺戮を楽しみ、人間たちの魂や肉体を奪い続けて、世界を氷に閉ざそうとした。
その悪魔の名が『ベディゲル』である。
結局、女神の力によって封じ込められ、永遠の牢獄に叩き落されたといわれている。
ベディゲルは自分を知っている人間がいて、感嘆する声を出しゆっくりと拍手した。
その行動は人間らしい仕草であり、それが逆に不気味さを際立たせていた。
「あたしを知っている人間がいるなんてねぇ~。嬉しいねぇ~アハハハ」
不気味な笑い声を上げる。
すると崩れ落ちた遺跡が連動したように揺れ動く。
周りを取り囲むように青い炎が灯り始めた。
その光景に帝国兵達は怯える。
「なんで、この国が寒いのか、なんでこの国に冬があるのか。あんたたちは考えたこともないだろうけど、それはあたしが原因だったりするんだよね~。この国はあたしが支配しているのさ」
「なんだと!?」
「ふふふっ」
恐怖のあまりに帝国兵らの一部が逃げ出そうとした。
出口へと向かっていくとそれにベディゲルは指を鳴らす。
パチンと音がこだましたあと、地面から氷柱が突き出し、入り口を塞いだ。
「おっと、逃がしはしないさ。遊んでくれよ。千年もここにいたら退屈で、退屈で、退屈で、仕方がないんだ。久しぶりに人と会えたんだ。楽しませてくれないと困るねぇ~」
帝国兵士らは逃げることをあきらめて一斉に剣を抜き、構える。
しかし、相手は悪魔だ。
普通の人間である彼らが勝てるはずもない。
それを承知の上で、彼らは戦いを挑もうとしていた。
「さぁ、シルビア。まずは唱えてみな。あたしの力を呼び起こす言葉を」
「え?」
「もうわかるだろ? 頭の中に入っているはずさ。魔の言葉を」
「……」
シルビアの脳裏に言葉が浮かび上がってきた。
なぜ、この言葉が思い浮かんできたかはわからない。
だけど、確かに頭の中に言葉が入ってきた。
それは魔法を使う時に必要な呪文だった。
シルビアは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸し手をかざす。
『―――絶対零度―――』
手から放たれたのは白い冷気。
その瞬間、遺跡の中の空間が音も、空気も、時間も、すべてが止まったかのように感じた。
帝国兵らは一瞬にして、青白く凍っていた。
「これはすごいねぇ。さすがは“勇者”の血だ」
シルビアは驚いた様子もなく、冷静なまま、ただただ目の前に広がる景色を冷たい目で見ていた。
人が一瞬にして、オブジェクトのように固まっている。
こんなことができるなんて……。これが私の力……。
「おや、人を殺したのに何も思わないのかい?」
その問いに対して、シルビアは不思議な気持ちになった。
当然のことながら生まれてから一度も人を殺したことはないはず。
それなのに、何も感じなかった。
あっさりとしている。
殺したことに罪悪感を感じることはない。
なぜなら彼らも同じく、自分を殺そうとしたのだから。
楽しんで、快楽のためだけに、人を殺した。
だからシルビアは自分の身を守るために殺した。
何がいけないのか?
殺されて当然の人間たちだ。
父親や母親を殺したように。
足で虫を踏み潰すのと同じ感覚だ。
おもむろに氷漬けになった帝国兵に歩み寄り、人差し指で弾いてみた。
すると氷は粉々になり、砕け散った。
足元に落ちた欠片を感情なくシルビアは虫を潰す感覚で、踏みつけた。
ガシャリと音を立て、踏みしめるととてもすっりとした気持ちになる。
「……あなたの目的は何?」
シルビアが振り向くと、ベディゲルが笑みを浮かべていた。
その表情からは何も読み取ることはできない。彼女は悪魔だ。
何を考えているのかなんてわかりっこないのだ。
しかし、彼女はさらりと言った。
「あたしの目的はねぇ~」
するとベティゲルは後ろへと振り向き、女神の石像を見上げる。
「“神を殺す”ことさ」
シルビアは眉をひそめた。
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ~。創造神ソラーナを殺す。千年もの間、こんな辺鄙な場所に閉じ込めた恨みを晴らすためにねぇ~」
その表情にはどこか怒りのようなものが見え隠れしているように感じられた。
「閉じ込められているの? ここに?」
「そうよぉ~。もうずぅーっと前からこの遺跡に封じ込められているのさぁ。誰かが崇めるわけでもなく、誰かが来るわけでもなく、ただずっとここで一人きり……」
寂しげな顔つきでベティゲルは語る。
その姿からは哀愁すら漂っていた。
「そこに君が来た。それも勇者の血を継ぐ者だよぉ。これほど愉快痛快なことはないねぇ」
ベティゲルは両手を広げて高らかに笑う。
「最高じゃないか。女神の恩恵を受け、勇者として世界を救うための使命を担うはずが、闇に堕ちるなんて、最高の復讐だと思うんだよねぇ!」
狂ったような笑い声を上げながら、ベティゲルは続ける。
「君の中にある闇がとても好きだ。それはそれは美しいものだよ。君の身体に染み付いた勇者の血もなかなか悪くはないけれどねぇ」
そしてまた気味の悪い笑顔を作り、シルビアの方を見る。
「さぁー、契約を履行してもらおうか」
「最初から仕組んでいたりないわよね?」
「まさか。そんなことはないさ。これは“運命”だよ」
「皮肉ね」
シルビアは苦虫を噛み潰したかのような顔をして言った。
「まあ、いいわ。私も女神には失望した。助けてくれると思ったのに。弱い者は死ぬだけ、強い者が正義。それをはっきりと見せつけられたからね」
彼女は自分の手の甲を見つめた。勇者の証であるアザがこれほどまでに憎いことはない。
女神に対する憎悪が大きくなり、女神の慈悲、慈愛、奇跡、それらすべてを信じた自分が馬鹿らしくなった。
怒りが心の底から沸々と湧き上がってくる。身体中から溢れ出る闇のオーラを見て、ベディゲルは頬を赤らめた。
「そうこなくっちゃねぇ! やっぱり君は面白い子だよ!」
ベティゲルは嬉々として答えたのであった。
「まってろ女神ソラーナ、私を見捨てたお前を必ず殺してやる―――」