☆第四十九章 これでいいの。
「琴ちゃん、ケチャップこぼれているよ!」
麗奈の声でふと我に返る。
手元のお皿を見るとオムレツにかけるはずのケチャップが机にポタポタ。
「ああ、ごめん」
あわててティッシュでふきとる。
「大丈夫? なんかぼーっとしているみたいに見えるけど」
「あ、うん、全然だいじょうぶ!」
昨日、デートに誘われたが、適当に何か言い訳をした。
「わたしの子がまだ一歳で手がかかるので、その……じ、時間がなくて」
そう言った瞬間、しばらく電話越しの沈黙が。
「あ、そうか……。旦那さんがいらっしゃるんですね」
いるって言っておいた方がいいのだろうか。だが、なんだろう? お人好し? 彼の声のトーンがあまりに低かったので
「あの、実は離婚していて、いないのです」と真実を告げてしまった。
「えっ……ああ、そうなんですか」
すると、薮内さんの声が一気にまた明るくなりかけて、平常を取り戻す。
つまり、自分としては嬉しいけれど、旦那と離婚したという話題は決して喜んではいけないことだと理解して慌ててトーンを抑えた。ということだろうか。
「もし、ご一緒してくださる時間が見つかればまた電話をかけてください」
そう言って電話が切れた。
「わ、もう八時過ぎちゃった! 琴ちゃん、いってきます!」
今日も麗奈と星弥くんが慌ただしく玄関から出ていくのを見送って、杏を保育園につれていく。
恋愛。なんてもう自分には今後無縁だと思っていた。
いや待てよ。デートって言っていたけれど、彼はただ、恩が返したいだけであって、一言も好きだとか好意を持っているとか言われていない。
でもデートに誘うって言ってたし、恋愛初心者のわたしだから、勝手にそう捉えているだけか。ダメだ。気が散ってしまう。
「おはようございます」
いつもどおり、環名ちゃんが我が家に出勤してきた。彼女の表情はいつもとさほど変わらない。
カタカタカタ……。一階にパソコンのキーボード音とマウスを動かす音だけが響く。
昨日聞いたことを伝えるべきか。彼女いないって言ってた。独身って言ってた。最近、この辺りに引っ越してきたと言っていた。
カタカタカタ……。それを伝えたらわたしが電話をかけたことが知られてしまう。結局なんだか言えない。
お昼になった。今日はお弁当を作る余裕がなかったから、二階にあがってうどんを茹でるつもりだ。
「琴さん、うどんは何派ですか?」
「えっ、何派?」
「きつね、たぬき、月見、あんかけとか」
「えっと……よくスーパーの惣菜に売っている野菜のかき揚げを乗せたりするけどな」
なんとなくスーパーというワードを使ってしまったことを後悔する。
「今日もカドイに行きます!」とか言い出さないかな?
なんで自分はこんなに小心者なんだろうか。環名ちゃんの機嫌を損ねるのが怖くて、ビクビクしている。
「ああ、かきあげ、天ぷらうどんは美味しいですよね」
残念ながら、今日はわかめと卵、かまぼこを乗せたうどんだ。
「いただきます」
ずるずるずる。今度はうどんを啜る音が部屋に静かに響く。
「な、なんか音楽でもかける?」
「琴さん」
「な、何?」
いつになく真剣な表情の環名ちゃんがじっとこちらを見ている。
「わたし、琴さんのこと尊敬しています」
「えっ……?」
突然の発言に、ちょっと頭が追いつかない。
「昨日の話を聞いて、感動してしまいました。それは薮内さんだって恋に落ちるだろうなって」
「あ……」
昨日、わたしは、薮内さんに初めて会った時の話を麗奈と環名ちゃんに伝えた。
「琴ちゃんらしいね」
麗奈はそう言っていた。
「わたしだったら、放っていってしまうかも。そう思ったら負けているんだろうなって」
環名ちゃんが頬杖をついて、はぁとため息をついた。
「でも、諦めないです」
環名ちゃんの目がわたしの目を捉えた。
「わたし、一目惚れとはいえ、本当に人を好きになったの初めてなんで、これから琴さんに負けないくらいいい女になります」
その目には強い信念のようなものを感じた。
「うん、環名ちゃんは今でも充分いい女だと思うけど……」
「ほんとに、ほんとにそう思いますか⁉️」
詰め寄られても……。
「勝負ですね」
「勝負?」
「そう、どっちが薮内さんをモノにできるか」
モノって言い方もどうかと思うけれど、ってちょっと待って待って。
「あの、環名ちゃん勘違いしているかもしれないけれど、わたしは薮内さんに恋愛感情なんて全く持っていないから」
そう言ったのに、自分の心の中の一部がもやっとした。気がした。
「そっか……」
「環名ちゃんの恋が成就するように応援するよ!」
「ありがとうございますっ!」
いつもの彼女の表情に戻って、うどんを一気に啜っていた。
そう、それでいいの。わたしはまだ離婚したばかりで杏を育てて、事業を成功させるので精一杯。これでいいの。