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第五十五章 ひまわりのミニブーケ。

☆第五十五章 ひまわりのミニブーケ。


 夏が長くて冬が短い昨今の日本は、とにかく暑い。天気予報では熱中症にお気をつけ下さいという言葉を耳にタコができるくらい聞く。


 環名ちゃんが明日、退院する。結局薮内さんには連絡できていないが、麗奈のこともちょっと気になるし、わたしの心は騒々しい。


 思い切ってみるか。薮内さんに電話をかける。

 ディスプレイの通話ボタンを押す手が思わず震えた。まるで中学生の子が初めて付き合った彼氏に電話をかけるみたいだな。


「はい」

「夜分にすみません」

「いえ、嬉しいです」

「あの、何度もしつこいようで申し訳ないですが……」


 わたしは環名ちゃんが入院していて明日退院することを伝えた。


「明日、我が家にご招待するので、来て頂けないですか。サプライズでいてほしいんです」


 迷惑極まりないお願いだが、断れたら仕方ない。それまでだ。


「いいですよ」


 あれ、あっさり承諾。


「というか、僕がお宅にお邪魔して大丈夫なんですか?」

「あ、はい……、同居人と子どもたちとシェフがいますが」

「シェフ?」

「あ……料理上手なお婆ちゃんがいます」


 思わずシェフ呼ばわりしてしまった。


「何時に伺えばよろしいですか? その……島崎さんには何かお花とか渡した方がいいですか?」


 なんと、花を用意してくれるのか。


「ありがとうございます。ただ、完治はしていないので、自宅療養なので」

「じゃあ花はいらないか」

「あ、いえ喜ぶと思います」


 意外にも素直だ。


「午前十一時ごろに帰宅予定です」

「わかりました。ではお宅に伺います」

「あ、家の場所なんですが―」

「知っていますよ」


 わたしは思わず固まる。


「えっ……なんで知って……」


 もしかしたら本当にストーカーで、クリスマスパーティーの日に我が家を見ていたのも視線を感じたのも……。


「実は、家かなり近いですよ。前田さんの家の斜め前のアパートに住んでいます。なので、何回もお見かけしたことがあります」


 なんだってええええええええ⁉️


「そ、そうだったんですか?」

「ええ」


 とにかく十一時に来てくれる約束をした。まさかそんなに近くに住んでいたなんて。


 翌日は水曜日と平日のど真ん中だが、麗奈は仕事を休んだ。有給ってのはこういう時に使うもんでしょ! と堂々と休みをとった。


 あき婆に子どもたちをみてもらっている間に、わたしと麗奈でタクシーを拾って病院へと向かう。


 つい数ヶ月前に麗奈はマイカーを売却していた。


「維持費高いもんー。駐車場代に、税金に車検にバカになんない」


 この家はガレージというものがついていないので、月極駐車場を借りていたが、約五年間愛用していた車は僅か二万円という値段で買い取られた。


「まぁ五年落ちだと仕方ないよね」


 病院で、私服に着替えた環名ちゃんを迎える。


「調子はどう?」

「まだ若干関節が痛いですが、大丈夫です」


 熱も下がり、発疹も消えた。


「自宅に帰ってもしばらく安静で、薬も飲まなきゃならないって」

「そりゃそうだよね」

「お酒もしばらくやめときなって」

「まぁ、仕方ないよ」

「うーん、酒のない人生なんて、味のないおにぎりみたいなもんですよ」


 そのよくわからない例えは置いておいて、薮内さんが我が家に来るのはサプライズで環名ちゃんには秘密にしてある。


 自宅前にあき婆と杏と星弥くんの姿があった。杏はあき婆が抱っこしてくれている。あれ、薮内さんは?


 タクシーで料金を支払って降りる。料金を誰が出すかでほんのちょっとだけ揉めて「ええい、みんなわたしに従え!」と偉そうなことを言って、万札を出してみた。


 お金なんてまだちゃんと稼げていないくせに。ちょっといつもの自分とは違う。


 タクシーから降りると星弥くんが「ママ!」と麗奈に抱きつく。杏も「まーま」と手を伸ばす。


「おかえり」


 あき婆がにっこり笑った。


「ただいまって、あき婆の家になっちゃったの?」


 確かに、ここは環名ちゃんの家ではないし、あき婆の家でもない。

 彼女はここに立ち寄ったあと、実家の両親の元へしばらく帰ることになっている。本来なら、わたしたちがでしゃばって退院を迎えにいくのもどうかと思ったが、

 環名ちゃんの親に相談して了承を得ている。


「ここはあんたの家みたいなもんだよ」

「そうそう、ここはみんなの家」


 タクシーが走り去るのを見送った環名ちゃんの視線が一点に定まる。

 そして彼女は目を丸くした。


 わたしもみんなもそちらを見る。

 そこには、ひまわりの小さなミニブーケを持った薮内さんが立っていた。


「退院おめでとう」


 環名ちゃんが驚きのあまり声を失っている。


「ごめんね、こんな小さなブーケだけど」


 薮内さんからミニブーケを受け取った環名ちゃんは涙を浮かべた。


「どうして……?」

「まぁ気にしないでください」


 嬉し涙を流す環名ちゃんを見て、よかったと思う反面、急に怖くなった。


 環名ちゃんが薮内さんと交際するようになればいいと思う。もしかしたら結婚だってするかもしれない。それに、麗奈が……麗奈には再婚願望がある。そしてこの間の件があるので、もしかしたら麗奈も……。みんな結婚して家を出ていく? わたしはもしかしたら一人で杏を育てて暮らしていくのかもしれない。


 いまの環境が良すぎるんだ。いい家に住まわせてもらって、麗奈がいて、星弥くんがいて。甘えるのに慣れてしまったら自立できないかもしれない。という不安が心を覆い尽くしていく。


「琴ちゃん?」


 麗奈に呼ばれて我にかえる。まぁ、一抹の不安は一旦置いておこう。


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