☆第五十七章 ぱぱってなあに?
土曜日、ゆっくりしてきなよと言ったのに、麗奈は夕方の四時には帰ってきた。
「もっとゆっくりしてきていいのに」
「ありがとう。あんまり星弥をほったらかしにしたくないしね。ただですら、平日は保育園に預けているんだから」
星弥くんは身長が伸びて随分しっかりしてきた気がする。もうすぐ四歳になる彼は、引っ越しの時にこき使われていた麗奈の元夫の綺麗な顔の遺伝子を引き継いでいるのか、美男子だ。
これは、将来モテるかもしれない。
一方の杏は、身長は低めで割と癇癪が激しい。イヤイヤ期は覚悟していたが、あれイヤこれイヤとワガママお嬢様である。でも麗奈曰く、全然マシだよ~。とのこと。
「わたしが訪問している家でもっとすごいイヤイヤ期の子はたくさん見てきた。でも親はしんどいよね」
ふと、産婦人科の授乳室で会った宮ノ下さんを思い出した。五人の子どもたちが次々イヤイヤ期に突入してそれを乗り越える。すごいな、確かにその場合、ワガママも泣き声も何もかもBGMになってしまうのかもしれない。
わたしが麗奈にその話をすると、彼女は笑って
「BGMね! そう思えたらいいけれどね。効果音的な。でもそれで真剣に悩んでいるお母さんも多いから、琴ちゃんもちょっといましんどいなぁって時があったら遠慮せず一人で出掛けてきてよ。お母さんだって一人の人間だから遊びたい時だってあるのが当然だし」
麗奈はさらりと優しい言葉をかけてくれる。さすが保健師さん。
「ワガママっていうより自我が芽生えたということだから、人間として一歩ずつ成長していると捉えた方がいいよね。わたしは赤より青の服がいい! とか、消防車よりパトカーのおもちゃがいい! とか。そういうの全くない人間なんてこの世に多分いないから」
それはそうだ。
「わたしたちだって、欲しいものとかあるでしょう?」
「欲しいものかぁ」
「琴ちゃんはあんまり欲にまみれていないから尊敬するよ」
「麗奈だって」
「いやー、どうかなぁ。たまにはホテルのスイートルームにでも泊まってさあ、見たこともないような料理を食べて、マッサージを受けて、広々としたお風呂にでも入りたいよ」
「確かに」
「行っちゃう⁉️」
「いくらかかるんだろう」
「だよねー」
自分の通帳の残高を見て現実に戻る。
夏もそろそろ終わるころ、スイートルーム宿泊旅行ではないけれど、日帰りで琵琶湖へ泳ぎにいった。関西に住んでいる人なら知っているであろう、琵琶湖は大きな湖で、波まであるけれど塩分はない、遊泳できるステキなところなのだ。
小さな浮き輪でぷかぷか泳ぐ星弥くんが、唐突にこんなことを話す。
「まま、あのね。ぱぱってなに?」
その質問は麗奈に向けられたものだが、わたしも麗奈も固まった。
「あのね、ほいくえんのおともだちが、ぱぱといっしょにおふろはいるって」
残暑の厳しい燦々と光る太陽の元、麗奈は困惑している。
「ぱぱ、ね。星弥にもパパはいるんだよ。会ってみたい?」
「うん」
もうすぐ四歳の子だから、ぱぱが何なのか自体わかっているのかどうかわからないが、確かに、ここに来ている湖水浴ファミリーたちを見渡すと、みんな男の人がいる。
大人の男の人が娘を抱っこしていたり、男の人、女の人、そして子どもたち。という家族たちが過ごしているのを見て、なぜうちは女ばかりなのか不思議だと思うのも仕方ない。
「わかった。パパに会わせてあげる」
そのあと、麗奈はいつも通り普通に笑って過ごしていたけれど、内心なにを考えていたのであろうか。そして、杏も成長したら同じことを聞くのかな。
保育園にも行事がある。運動会もお遊戯会もある。たいていの家は、パパとママが揃って観に来ている。
いつか、我が娘がパパという存在がいないことを認識し始めた時、わたしは、杏をパパに会わせるのだろうか。