☆第五十八章 パパが、うんどうかいにきてくれる。
十月に入っても、まだ日差しが強い日がある。環名ちゃんが仕事復帰してから順調に作業を進めていた。いつもどおりの日常。あの日から藪内さんとは会っていない。近くに住んでいるから、偶然出くわしてもおかしくないのに。
十月半ばの土曜日に星弥くんの通う、まきば保育園の運動会がある。運動会といっても0歳から三歳の子は、ほとんど競技らしい競技はなくて、年長組の四歳、五歳、六歳の子たちがかけっこや、玉入れ、踊りなどを披露する。
星弥くんは九月で四歳になり、運動会で踊りを披露するそうで、それをパパが見に来るということになった。
しかし、星弥くんはパパの顔を覚えていない。そのため、運動会の一週間前に公園で麗奈は星弥くんを元夫に会わせた、そうだ。
わたしは当然、部外者だからそこには行っていないし星弥くんが果たしてどのような反応を示したのかはわからない。ただ、帰ってきた麗奈に聞いたところ不思議そうな顔をしていた。と。
女性ばかりの家で過ごしているから大きな男の人には慣れていないであろうし、保育園の保育士さんも九割が女性だ。残り一割の男性職員は、星弥くんのクラスを担当していない。
その環境は杏だって一緒だ。杏もこの家で大人たちは皆、女性ばかりで大人の男の人と面識がない生活を送っている。
いっそのこと、薮内さんをたまに我が家に招待して夕飯でも食べてもらおうか。そうすれば環名ちゃんとの仲も深まるかもしれない。なんて考えたりもする。
金曜日の夜、星弥くんがそわそわしていた。
「あした、ママ見にきてくれるの?」
「もっちろん行くわよ」
園児の保護者や兄弟は観覧できるそうだが、わたしは保護者なのか?
「わたしは行ってもいいのかな?」
「いいんじゃない?」
麗奈はそう言うけれど、星弥くんとわたしの間に血の繋がりはない。
「私の妹ってことにしておく? つまり星弥にとっては叔母になる」
「えっ、麗奈と姉妹⁉️」
似ているだろうか、麗奈とわたしは似ているとは思わない。
「保育園側もいちいちそんなこと気にしないと思う。あなた本当に妹さん? 身辺を調べさせていただきますなんてw ないだろうし」
それもそうか。
「じゃあ、杏は星弥くんの従姉妹?」
「ってことになるわね」
「どこまで観覧OKなの?」
「さあ、まあ親族なら誰でもいいんじゃない?」
「それって、例えば祖母の妹の夫の兄の娘とかそんなんでもOKなんですかね?」
我が家でいつも夕食を食べている環名ちゃんが難しいことを言う。
環名ちゃんはいつも唐突だ。
「なにそれw」
「親族でーす」
「まぁ、細かいことはいいんじゃない?」
このご時世、運動会の観覧も昔に比べて自由が効かなくなった。不審者の侵入を防ぐため、ご近所の人や関係のない人は覗くことができない。防犯ってのはわかるけれど、なんだか世知辛い。
☆★☆★☆★
運動会当日は晴れときどき曇り。ベストな天気だ。保育園の園庭は小学校や中学校と比べるとかなり小さいので、観客はぎゅうぎゅう詰め状態。
ふと、久しぶりに通勤していたバスのことを思い出す。あのバスも毎日ぎゅうぎゅう詰めで、人口密度百五十パーセントが当たり前だったな。
小さな園児たちがとてもかわいい。0歳から三歳児さんは屋内の遊技場で、四歳児から六歳児は園庭でパフォーマンスをする。
兄弟姉妹がいる親は、保育園の中と外を行ったりきたり大変そうだ。
星弥くんのダンスはプログラム二番なので、すぐに始まる。
「あ、来た」
「……」
「挨拶くらいしなさい」
「こんにちは」
「こんにちは」
引っ越しの時、搬入を手伝ってくれた麗奈の元夫が登場。あの時も身長が高いなとは思ったが、やはり百八十ほどある。
「星弥はどこだ?」
「自分の息子はちゃんと自分で見つけなさい」
麗奈は元旦那には超厳しい。
「あ、いた! 大きくなったなぁ」
「しっかり、瞬きしないで見ててよね」
かわいいダンスが始まる。みんな一生懸命振り付けを覚えたんだね。途中で泣き出す子もいたりするけれど、そんなこともあるのが保育園の運動会であろう。
「自分の娘はかわいい?」
「かわいいに決まってんだろ」
そうだ、確か別の人を妊娠させて……その人と結婚して家庭を持っていると。
ふと、学のことを思い出した。学はいま、どこで何をしているのだろうか。
もしかしたら再婚なんかしているのだろうか。新しい彼女ができたりしているのだろうか。それを想像しても心が痛くならない。ということは彼のことは完全に思い出になったのだろう。
星弥くんのダンスが終わった。杏の保育園の運動会は来週だが、まだ一歳の杏は、親子で遊ぼうみたいなコーナーに出場するだけである。
杏はパパを欲しがるだろうか。その時、一瞬だけ薮内さんのことが頭をよぎった。
あれ、なんで。まさかあの人をパパ候補に? それはない。
薮内さんは最近、どうしているのであろうか。いまも謎だらけの彼のことが気になるのは環名ちゃんが彼のことを好きだからだ。そう思い込んでいた。