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☆第六十二章 彼からのお願い。

☆第六十二章 彼からのお願い。


 住所不定……ではない。名前は知っている。職業不明。そもそも働いているのかどうかすら知らない。年齢、えーと不定? 嗜好、趣味、不明。 出身地、不明。


 そんな人を好きになる自分もどうかしている。どうしよう、環名ちゃんがいるのに、わたしは環名ちゃんを裏切るのだろうか。


「琴さん、このシーンですが―」


 仕事中、環名ちゃんが声をかけてきた。丸いくりくりの目に小柄で可愛らしい彼女。毎日夕飯を一緒にとり、一緒に仕事をしている環名ちゃんは自分にとって、家族同然だ。彼女を傷つけるなんてあり得ない。


 そうやって自分の気持ちに蓋をする。


 しかし、蓋をしたその日のうちに、食材の買い出しにスーパーへ行くと彼と出会ってしまった。


「あ、こんにちは」

「こんにちは……」


 カゴをとって、黙って店に入る。無視無視。いや、失礼か。


「あの……」


 よりによって呼びかけられる。


「なんでしょう?」

「ごめんなさい。迷惑でなければちょっとだけ協力して頂きたいことがあるのですが」


 え、何? せっかく彼を避けようとしたのに、何の協力なのだろうか。


「ごめんなさい。保育園のお迎えの時間があってあまり時間がないもので……」


 そう言った瞬間、心が痛くなった。ズキズキ……、我慢しろ自分。


「そうですか。ごめんなさい呼び止めて」


 眉を下げる彼の顔にキュンとしてしまう。ああ、ダメだダメだ。


「あ、あの協力ってなんですか?」


 無意識のうちに聞いていた。


「あの、いま僕は保育士の資格をとろうと思って勉強中でして。あのあと、家も何もかも失った状態からとにかく仕事を探してお金を稼いで、住む場所を得て……ってごめんなさい、忙しいんでしたね」


 なんだろう、スーパーの片隅で彼が初めて自分のことを語ってくれた。


「あ、いえ短時間なら」

「ありがとうございます。前田さんのお子さんって何歳ですか?」

「いま、二歳です」


 保育士の資格をとる。なんか意外だけど納得できるような。


「今度……、もしお子さんと公園に行くとかそういうことがあればご一緒させて頂くことはできないかと思いまして」


 ええっ⁉️


「あ、ごめんなさい。気持ち悪いですよね」


 まずい、いまのええっ⁉️ が顔に出たのだろうか。


「テキストで学ぶだけではなくて実際の子どもたちと触れ合ってみたいなって気持ちが湧いてきて。でも僕は独り身だし、親族も誰も頼れないから子どもと触れ合う機会なんて到底なくて」


 なるほど、そういうことか。

 確かに顔つきは穏やかだし、子どもたちからすると『優しいお兄さん』って感じなのだろうか。身長は高いが、保育士という職業が合ってそうなイメージだ。


 こちらは、環名ちゃんが退院した時にきてほしいとお願いして、ちゃんときてくれた。お願いを聞いてくれたのに、相手のお願いを断るのはいかがなものか。


「わかりました」

「いいんですか?」

「はい、今は季節も穏やかだから、日曜日の午前中はだいたい、てんとうむし公園にいます。わかりますか、てんとうむし公園?」

「あ、あの可愛いすべり台のある公園ですね」

「はい。わたしと娘と同居人とその息子の四人で大抵そこにいるので、よかったら来てください」


 麗奈に何の了承もとっていないけれど、彼女ならNOとは言わないであろう。


「ありがとうございます!」

「あ、でも雨が降ったりとか子どもが風邪ぎみとかの場合は行かないのでまた連絡します」

「本当にありがとうございます」


 また連絡します。って言ってしまった。ほんの少しだけ口角が上がってしまう。いけない、自制心。


 日曜日、朝からお天気もよく絶好の行楽日和だ。てんとうむし公園へ行くための準備をする。水筒にお茶を入れて、お砂場道具とボールを用意した。


 いつも当たり前のように行っている公園なのに、緊張するじゃないか。

 麗奈はあの日、薮内さんと会ってお願いされたことを伝えると、「わかった!」とのみ答えた。それだけで何も言わない。


「環名ちゃんを誘ってみよう」


 わたしはそう言おうと思っていた。でもずるいかな、やめた。言わなかった。今回はあくまで子どもたちと触れ合うことが目的なのだから。



 公園に着くと、元気いっぱい星弥くんがてんとう虫の形をしたすべり台に駆けていく。杏は、星弥くんのあとを追うが、なんせ天気がよいので、公園にはたくさんの子供たちが遊びにきていて、すべり台の階段に列をなしていた。薮内さんはまだ来ていないようだ。


 素直に順番に並んで待つ。保育園で優秀な保育士たちにそう教えられた二人はじっと待っているが、子どもってのはそうはいかない。いや、大人でもか。必ず順番抜かしが発生する。


「ならんでよ!」


 順番を抜かした子は杏と同い年くらいの子で、言葉の意味がわかっているのかわからないのか無視。すると順番を抜かされた子からブーイングの嵐。


「ならんでって言っているでしょ!」


 綺麗な髪飾りをつけた五歳くらいの女の子がキツめに言う。親たちが出動。


「こらー、カナちゃん! すみませんすみません」


 お母さんと思しき女性が、無理やり順番を抜かした女の子を抱っこすると、女の子がキーっと怒りはじめた。よくある光景だ。


 カナと呼ばれた女の子はお母さんに抱っこされながらも暴れ、泣いている。二歳ってそんなもんだよな。


 ほら、薮内さん、これがリアルな子どもだよ。と公園の入口の方を向くと彼が立っているのが見えた。


「こんにちは」

「こんにちは……」

「ご無理を言ってすみません」

「あ、いえ」

「お子さんの数が多いですね。いつもこんな感じなんですか?」


 黒いふわりとした髪、水色のシャツとジーンズ、柔らかい顔つきの彼は春の公園に馴染む。そんな気がした。


「そうですね、春とか秋とか気候の良い時は、多いですね」


 砂場ではたくさんの子が穴を掘ったりバケツに一生懸命砂を入れたりしている。


 杏はまだまだ目が離せないので、薮内さんと話したあとすぐに杏の元へと戻った。すべり台を滑った杏が星弥くんのあとを追って走る。一緒に暮らしているのもあって、まるで本当のお兄ちゃんのように慕っているのだ。

しかし、星弥くんの方が圧倒的に足が早くて追いつけない杏は、途中で転んで泣き出した。


「よしよし、痛かったねぇ」


 杏のズボンについた砂を払って、彼女をなだめる。おや、今日は泣かない。えらいぞ。


 星弥くんは麗奈のいるベンチに一度戻って砂場道具を手にもち、お砂場へ直行する。杏もそちらへ向かう、と思ったら一羽のきれいなアオスジアゲハが彼女の前を横切った。


「ちょうちょ」

「そうだね、綺麗なちょうちょだね」


 杏は必死で手を伸ばすが、蝶は意外と動きが早い。あっというまに上空へと飛んでいく。


「まま、とって」

「えっ! 無理だよ」


 今日は虫取り網も虫かごも、持ってきていない。その時だった。


「この蝶じゃダメかな」


両手で何かを包み込むように持った薮内さんが現れる。警戒している杏。

薮内さんがそっと手を開けると、小さな蝶がひらひらと舞う。


「シジミチョウですね」

「よくご存知で」


 星弥くんが見せてくれた昆虫図鑑に載っていたから名前を知っているだけだ。


「杏、あおいのがいい」


 最近、杏は自分のことを『杏』と名前で呼ぶようになった。

 しかし、辺りを見渡してもアオスジアゲハはどこかへ行ってしまったのか見当たらない。


「あおいチョウチョさん、どこか行ってしまったみたいだから」

「やだー、あおいのがいい!」


 これぞまさにイヤイヤ期。アオスジアゲハさん頼むし帰ってきて! でも、帰ってきたところで虫取り網もないから捕獲不可能か。


 イヤイヤ言っているかと思ったら、何かを見つけたのかふと急に走り出す我が娘。


「まーくーーん」


 杏が向かう先には一人の男の子。あ、この子は保育園で一緒のクラスの!


「あんちゃん」

「あーそーぼー」


 二人で仲良くお砂遊びをはじめてほっとした。ありがとうまーくん、そこにいてくれて。


「こんにちは」


 まーくんはパパと来ているらしく、パパに挨拶された。


「こんにちは」

「うちの眞人まさとと仲良くしてくださっているみたいで」

「あ、いえこちらこそ、杏といつも遊んで頂いてありがとうございます」


 保育園には日誌というものがある。本日、何をしました、何を食べました、お昼寝は何時から何時までしましたなど、保育士さんが記録してくれている。


 杏はクラスの中で、眞人くんと咲季ちゃんという子と仲がいいらしい。そして一時トラブルになったが、遊斗くんとよく遊んでいます。といったことも日誌に記されている。


 わたしは眞人くんのパパとしばらく他愛もない世間ばなしをしていた。その間は話をするのに必死で、薮内さんの存在を忘れていた。


 もちろん娘の様子もチラチラと確認する。砂場で一番多いトラブルというのは、砂を投げてそれが周りの子の目に入るというもの。目だけではない、口に入ったり、そもそも砂を投げつけてしまった時点で相手からは相当嫌がられる。


 いまのところ、杏と眞人くんは仲良く遊んでいる。ふと薮内さんの姿がないことに気づいて、立ち上がると、公園のベンチで麗奈と薮内さんがお話をしていた。


 なんとなく、心に湧き上がるモヤモヤ感。ああ、これは……ヤキモチってやつだ。


 麗奈には彼氏がいる、心配することなんかないのに。


 日が高くなってくると、公園に集まっていた子どもたちがお昼ご飯を食べるために帰路につく。少しずつ人数が減っていって、杏と星弥くんと眞人くんだけ残った。


「今日はありがとうございました。僕も帰ります」


 薮内さんが頭を下げる。


「あ、いえ。こんなのでよかったのかな?」

「勉強になりました」


 結局子どもの様子を監視しなきゃならないし、眞人くんパパとお話をしていたので、薮内さんと殆ど会話することができなかった。


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