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第六十四章 新しい従業員はまさかの。

☆第六十四章 新しい従業員はまさかの。


 わたしはいま、非常に混乱している。事務所の眼の前の椅子に座っているのはまぎれもない薮内さんだからだ。


 履歴書を受け取る。環名ちゃんも興味津々で後ろからのぞきこんでいた。


「えっと……うちで働きたいと」

「はい、平日二日だけとかではいけないでしょうか?」

「それは大丈夫ですが、いま、保育士の資格の勉強をなさっていますよね?」

「はい、もちろんその勉強はしています。しかしお金を稼がないと生きていけません。いまは単発のバイトを土日に行ってなんとか生計を立てていますが、最近物価の上昇などもあって生活が苦しいです。ここなら家からすぐなので、働かせていただけたら嬉しいです」


 履歴書を確認して、初めて誕生日や出身の高校などを知る。高卒なんだ。大学は行っておらず、高校卒業後に派遣スタッフとして働き始めたようだ。


―あの時……あの冬の日、派遣切りに合いましたと紙に書かれていた。


 薮内さんがどこで産まれ、どのような親のもとで育って、どうして正社員でなくて派遣で働くことになったのか。などの個人情報までもちろんわかるワケもない。


「ここでやる作業なのですが、サムチューブの動画を編集しております」

「なるほど、動画編集ですね」

「パソコンは得意ですか?」

「以前、派遣で映像制作会社に勤めていました」


 おお、それはなんと戦力になりそうではないか。


「とはいってもそこにいたのはたった二年ですが」

「映像制作とは具体的にどのようなものを?」

「プロモーションビデオですね。アイドルのMVやミュージックビデオなど」


 なんと。わたしは環名ちゃんと顔を見合わせた。


「さ、採用ですっ!」


 あれ、わたしじゃなくて環名ちゃんがそう言う。そりゃそうだよな。採用したいよな。自分の好きな人が従業員になりたいって来ているのだから、不採用で返したくないに決まっているけれど、一応代表はわたし……。いや、わたしなんて即戦力になっていない、明らかに能力は環名ちゃんの方が上だ。そう思ったら、自信がなくなった。


「ありがとうございます」


 いつものように彼は目尻にシワを寄せて笑った。キュン……。いけない。キュンって何。


「平日とは……何曜日と何曜日にこられそうですか?」

「えーと、火曜日と木曜日でもいいですか?」

「時間は?」

「九時から五時まで」

「なるほど」


 薮内さんを採用したらどうなるのだろうか……。ここにいる女性二人、すなわちわたしと環名ちゃん二人が彼のことが好きという三角関係で働く。それでいいのだろうか。でも不採用にする条件が特にない。採用するしかなかった。


 複雑な気持ちと、どこか喜んでいる自分と。変な感情で作業を進める。彼には来週から来てもらうことになった。明らかに環名ちゃんのテンションが上がっている。


「ええっ⁉️ 薮内さんが新社員⁉️」


 夕飯の席でただただ、驚く麗奈。


「そうなんですよー。びっくりしましたよね」

「そうなんだ……」


 複雑な表情の麗奈。彼女は勘がいいからわたしの気持ちに気づいているかもしれない。


「あの、琴さん?」


丸いくりくりの目で問いただす環名ちゃん。


「はい?」

「社内恋愛って禁止ですか?」


 社内も何も、会社として設立していないし、雇用もすごく勝手な雇用で、全員が単体フリーランスという形だ。


「会社じゃないから、自由だよ」

「この先、会社として立ち上げるのは?」


 それは前々からどうしようか悩んでいるが、動画の世界なんて人気が出たと思ったら急にすぼむなど、流行り廃りが激しいから会社にしてしまうと大変な気もする。


「もっと安定したら……かなぁ」


 環名ちゃんの質問からすると、これからどんどん薮内さんにアタックをするつもりなのであろうか。


 彼女が帰宅したあと、慌ただしく子どもたちを寝かしつけると麗奈が


「琴ちゃん……、ごめん率直に聞くけど薮内さんのこと、好きなんじゃないの?」


 と、尋ねてきた。なぜ彼女にはわかるのであろうか。本当にどれだけ勘がいいのか。


「麗奈もあき婆みたい」

「えっ?」

「エスパー。どうしてそんなに色んなことがわかるの?」

「ってことは正解なんだ」

「……」


 わたしはお風呂あがりにタオルで髪をしっかり拭いて、ドライヤーを手にした。

「まだ、正直好きかどうか。でも気になってしまって」

「これね、あき婆が言ってたんだけど、恋に堕ちる時ってのは一瞬で、その人に出会った瞬間からもう始まっているんだって」

「え?」

「例えば、琴ちゃんが、歳下がいい! とか こういう職業の人がいい! とか理想を描いていたとしても、それにあてはまらない人で、出会った瞬間に何かを感じてしまって。それから相手のことを知って、ふといつの間にかその人のことばかり考える。これが恋だって」

「なるほど……」

「あき婆の受け売りだけど、恋は一瞬で堕ちるもの。愛は時間をかけて育むもの」


 あき婆は名言集を出版できそうなくらい、人生を熟知している。


「麗奈は、例の人に対してそうだったの?」

「うーん……最初はそんなつもりなかったんだけれど……。いつの間にか、その人のことばかり考えちゃうんだよね」


 それはわたしも経験ある。ただ、学の時は付き合い初めてから彼のことをどんどん好きになり、学以外もう何も見えない。みたいになっていた。

 あの時は、付き合っている状態だからよかったけれど、わたしと薮内さんの間柄なんて、今のところ特に深まってもいないし、環名ちゃんがいるのに、自分の恋を成就させようって気が起こらない。


「あ、いま琴ちゃんの考えていることが見えた」

「やっぱりエスパー?」

「環名ちゃんがいるからって自分の気持ちに嘘ついたらダメだよ」


 心にグサリと刺さるなぁ。麗奈の言うとおりなのだが、それはやっぱり性格なのか。彼に猛アタックを仕掛けるなんて気にはならない。


 来週からいったいどうなるのか。薮内さんとの仲は深まるのかどうか。わたしより環名ちゃんが先に彼をゲットするのか。はたまた、いまのまま、誰一人として関係は深まらないままなのか。


―ミライは誰にもわからない―


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