☆第六十五章
一階の事務所に机と椅子を追加した。パソコンは値段が高いので、お給料から分割払いで天引きしようかと思ったが、週二勤務となると、お給料が殆ど発生しない。
「パソコンは一応持っています。ただ、中古だし、七千円で購入したもので、最低限ネットで調べ物をしたり、テキストを打つ程度です」
七千円のパソコンで、動画編集をするのはちょっと厳しいので、結局のところ中古ではあるがハイスペックなデスクトップパソコンを購入した。九万円。
「あの……」
朝、出勤してきた薮内さんに問いかける。
「分割でパソコンを購入する件ですが、二十四ヶ月でいいですか?」
「はい」
にこりと笑うが、真意が見えない。なんでここで働くことにしたのだろうか。
リアルな数字で出すと、例えば九万円のパソコンを二十四ヶ月(二年)で支払うことになるから、一ヶ月、三千七百五十円、給料から天引きすることになってしまう。
効率が悪いような気がした。
単発で月に十五回ほど仕事をしているそうだ。それで勉強もしているのならかなりハードな生活が予測される。
「構いません。正直これは僕の勝手で、恩を返したいという気持ちがあってのことです」
「えっ……」
そうだった。薮内さんは、わたしがいつの日かほんのちょっとだけお椀に入れたお金と紅茶に感謝して、わたしを追いかけてきた??? んだった。
「あの……」
「はい?」
「聞いていいのかわかりませんが、どうやってわたしの居場所を突き止めたのですか?」
突き止めたって言い方はまずかったかな。
「あ、それわたしも聞きたかった!」
環名ちゃんが椅子をくるりと回してこちらを向いた。薮内さんは、少々戸惑った表情をしていたが、こう切り出した。
「あの……、実は覚えていらっしゃらないかもしれないですが、お椀に財布の小銭を恐らく全部入れてくださったではないですか」
「はあ……」
「桜の花びらと金色の花が入っていました」
「さくら……?」
記憶を必死で呼び戻す。桜、さくら、金色の花?
「あっ!」
そうだ、奈良県南部に位置する、桜の名所の吉野というところで、確か拾った桜を財布に入れていた。財布の中で、乾燥して変色して、美しいピンク色の花びらではなくて、得体のしれない色になったカサカサの花びら。
さらに金色の花は同じ吉野のお土産屋で販売されていた『財布の中に入れておくと金運がアップする』という小さなオブジェだ。
あの冬の日、私は小銭入れを逆さに向けて、全部中のものを放り込んだ。お金以外のものまで入れてしまっていたのか。
「それにしても、その二つだけでよくたどり着きましたね。吉野に住んでいたわけではないので、住んでいるのはとなりの村で……」
「はい。僕も最初は吉野にたどり着いたけれど、どうすることもできず、僕を助けてくれた女性の正体は謎のままでした。仕方がない、帰ろうと吉野町のバス停で待っていると腹痛を起こしてしまって……。本当に恥ずかしいかな、人のお世話にばかりなってしまっているのですが、その時に助けてくれたのがあなたのお母さんです」
ちょっと待って、突然、お母さん⁉️
「え、ええ、え? うちの母?」
予想外すぎて、脳がついていかない。なんで突然母が……。
「はい、バス停で横たわっていた僕を病院まで車で運んでくださった女性の顔があの時の女性と似ていたもので……」
またそれは偶然に偶然を重ねたような話だ。確かに吉野町は隣町だし、母があの辺りを車で走っていてもなんらおかしくはないのだが。
「それで、その女性が本当に親切な方で、病院の診察が終わるまで付き添ってくださって、僕は、腹痛が治まってからその方に聞いてみました。娘さんがいらっしゃらないかと」
「はあ……」
「そうしたら、大阪の西区で暮らしているという話を聞いて。これはもしかしたら、その娘さんのお母様なのかもしれないと思ってお名前をお聞きしました」
なんだって。母からその話は聞いていない。
確かにわたしと母は似ているとよく言われる。実家の隣の井ノ上さんが、冗談まじりに「まるでコピーしたみたい」とか言っていた。顔も大概似ているが、特に声がよく似ているらしくて、昔は実家の固定電話に「はい、前田です」と出ると母とよく間違われたものだ。
母は短髪で身長155センチほどしかないが、わたしは160センチの長髪。
「よくそれでわかりましたね。西区といっても広いですよ」
「そうですね。でも大阪市の区の中では実は面積、一番狭いですよね」
そう言って彼は笑うが、狭いといってもそれだけの情報でよくわたしを探し出したものだ。
「どうやってわたしを見つけたのですか?」
「歩きました」
「え、歩く?」
「はい、とにかく西区で日雇いの仕事を見つけて、最初はネットカフェに泊まっていました。仕事は週六日、そして残りの一日、あちこち歩いてみたのです」
「……それでわたしは見つかったのですね」
「なんかストーカーみたいですみません」
ずっと探されていたなんて。なんというか。嬉しい? ではないな。怖い。これが変なオジサンとかだったらかなり気持ち悪いのだろうが、相手が薮内さんだから許せてしまう。自分はどうかしている。
「どこで見つけたのですか?」
「例の河川敷で」
「あ、あの時!」
「いえ、実はその二ヶ月ほど前に散歩をしているのを見かけまして……」
蚊帳の外の環名ちゃんが気まずそうな顔をしている。
「か、環名ちゃんごめんね。仕事中なのに私語ばっかり」
「……大丈夫です。わたし、コンビニに何か買いに行ってきていいですか?」
「あ、はい……」
しまった。彼女の機嫌を損ねただろうか。それとも気を遣った?
「すみません。事情はわかりました。では、作業にとりかかりましょう」
薮内さんは頭がいいのか、仕事を教えだすと呑み込みが早い早い。
環名ちゃんが帰ってきた。
「どうぞ」
買ってきたのはおにぎり、パン、惣菜のコロッケとサンドイッチ。
「今日はお昼ご飯わたしが奢ります」
なんだかんだで時計を見ると十一時半を過ぎている。
「女性に奢らすなんてできません。お金は支払いますので」
薮内さんが財布を取り出した。その財布は見るからにボロい。
「いいです。今日は薮内さんの歓迎日ですから」
そう言って、環名ちゃんが卵サンドを薮内さんに渡す。
「ありがとうございます……」
「あ、卵サンド好きでした?」
「大丈夫、好きですよ」
薮内さんが環名ちゃんに笑いかけるのを見て、ほんの少し胸のあたりが痛む。
執念でわたしを探し出した一人の男性。その人がいま、眼の前にいて、わたしのことを好きだと。なんだか漫画みたいな話で現実味がない。
お昼ご飯を食べながら
「薮内さんは食べ物って何が好きなんですか?」と環名ちゃんが問う。
「なんでも好きですよ」
「この間喫茶店行った時は、ケーキ食べていましたよね。甘党ですか?」
ああ、そうか。この間環名ちゃんと喫茶店で一緒だったんだ。
「甘いのも辛いのもいけます」
「酸っぱいのは?」
「いけますよ」
「苦いのは?」
質問攻めだな。
「うーん、まぁいけるかな」
「嫌いな食べ物ないんですね」
「……食べ物じゃないんですけど、タバコの煙がものすごく苦手で」
「そうなんですか?」
「はい、僕の父がヘビースモーカーで、狭い部屋で何本も吸うものだから大嫌いになりました」
薮内さんのお父さんとお母さん。どんな人なんだろう?
「お二人の好きな食べ物は?」
物腰柔らかくて優しい声。
「酒です」
堂々と答える環名ちゃんがたくましい。すると薮内さんが笑う。
「食べ物なのに、お酒なんですね」
「おつまみはチーズがいいです」
「なるほど」
完全に二人で盛り上がっている。
「前田さんは?」
「は、はいっ!」
急に名前を呼ばれてドキリとする。
「えっと……チーズケーキは好きかな。あと春巻き」
「しいたけたっぷりのね」
和やかな昼食の時間を過ごした。
「おつかれさまでした」
あっと言う間に一日が終わる。
わたしは十六時に仕事を終えて、あと薮内さんと環名ちゃんのみ事務所に残すことになるのが、ちょっと悔しいような、妬いてしまっている。
ああ、何を考えているんだ自分は。それにしても本当に、わたしを追ってきたのだ。
物腰柔らかい笑顔の裏に隠された彼の根性を垣間見た気がした。