☆第八十二章 デートなんて何年ぶりだろう。
春の日差しが暖かい日曜日、わたしは姿見の前で服を選んでいた。
保育園で見かけるお母さんで、子どもが小さくてもメイクばっちり、服も流行りの服を着ているママさんたちを羨ましく思うこともあったが、元々そんな洒落っ気もない人間である。杏を産んでからは汚れてもいい服ばかりを着ていた。
久しぶりにクローゼットの奥から取り出したワンピースは少々デザインが若い人向けだろうか。いや、まだ三十四歳だし若い? ギリギリOK?
と、まぁそんな選択肢がたくさんあるほど服を持っていない。あまり迷っていると待ち合わせに遅れてしまう。
杏は毎度の如く、あき婆に預けることにした。申し訳ないが、日曜日は保育園は閉まっている。ふと、麗奈はどうしているだろうか。と気になった。つわりは治まったのだろうか。
白地にリボンのついたワンピース、髪はアップにして、リップグロスを塗る。心がときめく、こんな気持ちはいつぶりだろうか。
家がすぐ近くなので十時に薮内さんが我が家まで来てくれる。ピンポーン、というインターホン。心が踊る。
今日は水族館へ行く。薮内さんはいつもどおり、紺のシャツにジーンズとシンプルな格好だ。車なんかはないから、電車に乗る。手を繋いだだけでドキドキする三十代。
世の中の中学生の方がよっぽどませているんじゃないかと思う。
色とりどりの熱帯魚に、砂から顔を出すチンアナゴ、迫力満点のワニ、芸達者なアシカたち、よちよち歩くペンギン、あっという間に時間は過ぎる。
楽しい、楽しすぎる。魚も動物たちもかわいいし、隣を見れば大好きな人が笑っている。
薮内さんはお日様 みたいな人だ。笑顔を絶やさず、優しく微笑みかけてくれる。
「洸稀でいいよ」
ソフトクリームを食べながら、藪内さんがそう言った。
「こ……こう……」
しどろもどろなわたしに、吹き出す藪内さん。
「そんなに恥ずかしい⁉️」
「な、なんか慣れなくて」
「じゃあ、琴さんでいい?」
「えっ、わたしはさん付け?」
「じゃあ琴」
なんだろう、このバカップルのような甘い時間は。まあいいや、年齢なんて気にしないで盛大、バカップルを楽しもうではないか。
手をつないで歩く、指が長くて、ちょっとゴツゴツしていて、優しいけれど力強い、そんな手を離したくない。このままずっとずっと、明日もあさってもこうしていたい。
★☆★☆★☆
「恋って魔法だよね」
幾分か痩せた様子の麗奈がトマトジュースを飲みながらそう話す。
つわりがマシになったとのことで久しぶりに麗奈がうちの家に遊びに来てくれた。
今日は、環名ちゃんもあき婆も一緒で前のように食卓を囲む。
「結婚する前は魔法にかかっていて、結婚した途端魔法が解けるのかも」
「何かあったの麗奈?」
新婚なのに、言う事が現実的すぎる。
「いや、別に何もないけど」
「あんた、食べられるものは増えたんかい?」
あき婆がさっぱりしたメニューを机に並べる。
「まだ、和食が食べられないのよ」
「ジャパニーズなのにねぇ」
「青魚の匂いがダメ、味噌汁もダメ、ご飯を炊く匂いもダメ」
「ご飯はわかるけどね」
わたしもそうだった。杏を妊娠中、たしか初期のころは炊飯器からあがる湯気から遠ざかっていたっけな。
「じゃあ、普段何食べているんだい?」
「パスタと冷奴とトマト」
「つわりってそんなにしんどいんですねー」
環名ちゃんはケロッとした顔でまた焼酎を飲んでいる。
「え、じゃあ新婚生活はどうなんですかー?」
環名ちゃんの質問に麗奈は冷笑を浮かべる。
「楽しいよ」
「顔が笑ってないですよ」
「まぁ、星弥がいるし、仕事もあるし、旦那は看護師だから夜勤多いし」
「家のこととか手伝ってくれないの?」
「それがさ、手伝ってくれるのよ」
「だったらいいじゃないですか」
「手伝おうという気持ちは大事よね。あのひと、家事能力ゼロなの知らなかった」
麗奈が一気にトマトジュースを飲み干す。
「琴ちゃん」
「な、なに⁉️」
「藪内さんと結婚するなら、いまのうちに調教しておいた方がいいよ」
「ええっ⁉️」
調教とはまた……結婚ってまだお付き合いし始めたばっかりなのに。
あき婆が後ろを向きながら笑いを堪えていた。
「特に料理はできた方がいいよね」
「できるに越したことないですねー。で、麗奈の旦那さんは何作ってくれるの?」
「サバの味噌煮とか」
「思いっきり和食じゃないですか。しかも青魚」
「そうなのよー! 和食が身体にいいから食べろってまるで母親みたいに」
まあ、相手が看護師さんだから栄養に注意しろってことなのかなぁ。
「しかも、味付けが濃いの! 味噌入れすぎ!」
「すごい、サバの味噌煮作れる男性はそうそういないですよ!」
「それは確かにそうかも」
「というワケで琴ちゃん、いまから彼を調教しておくのよ」
いつも優しい麗奈が今日は辛口だ。
結婚? そんな未来もあるのだろうか? なんとなくエプロン姿の藪内さんを想像する。うん、似合う、似合いすぎる。
「まぁ夫婦なんてそんなもんだよ。って生涯独身のわたしが言うことじゃないけどねぇ」
あき婆がオクラの和物を机に置いた。
「あき婆が今後結婚する予定は?」
環名ちゃんの質問に思わず口に入れたものを吐き出しそうになる。
「わたしかい? そうだねぇ……ってわたしの前にあんたがいい人見つけなさい」
久しぶりの女子会は大賑わいだ。