「……そうですね。それもいいかもしれません」
「‼ ら──っ」
バタン──と扉が閉まる。
感情のない声でそう言うと、蘭は一度も振り返ることなく、広間から出ていってしまった。
私が彼女を呼び止めようとする声も、届いていなかっただろう。
「はぁー……」
頭を抱え、椅子に腰を下ろすと、私はその机の上に突っ伏した。
「何をやっているんだ、私は……」
あんな大人気ない言い方をするだなんて。私らしくもない。
ただ普通に、気を付けて言って来いと言うこともできただろうに。
なのに、王栄と楽し気に話す彼女の姿を見て、なぜだか気が高ぶってしまった。
自分の知らないところで、自分以外の男と二人で会う。
それが妙に腹立たしくて、つい、苛立ちをぶつけてしまった。
こんなことは初めてだ。
基本人に対して特別な感情を抱くことのない私が、特定の人物、しかも女性に心動かされるなんて。
「きっとここに永寿がいたなら、『嫉妬ですか?』なんていい笑顔で揶揄ってくるんだろうな」
自嘲気味に笑うも、すぐにそれもため息に変わる。
後宮で生まれ、母が死ぬとすぐに市井へと落とされた。
それまで良くしてくれた女官や宦官も、父の妃嬪達も、誰一人として私を助けようとはしてくれなかった。
寵愛を受けた母という後ろ盾を無くした私は、ただの憎き寵妃の子。
某脳が生きようが、彼女らには関係が無かった。
私は、私に優しくすることで寵妃との仲を良好にし、皇帝へ主張するためだけの道具だった。
そのことに気づいて、私は人を信用することも、人に心を近づけることもやめた。
私の信頼する人は、追放された私を自分の立場も捨てて追って来てくれた永寿ただ一人だった。
この先もずっとそうだと思って来た。
皇弟として朝廷へ戻され、地位を与えられても、ただ淡々と自分が育った市井を良くすることだけを考えて生きてきたし、誰かを懐に入れるなど考えたこともなかった。
女性から言い寄られないわけではないが、幼い頃の経験から特に女性は信用が出来ず、この歳になっても女性を傍に置くことはない。
「初めて懐に入れて傍に置いてしまったのが、よりにもよってあの山猿か……」
蘭は不思議な女人だ。
まぁまぁ悲惨な境遇で育ち、家族すら失ったというのに、それを卑下し続けるでも、悲観するでもなく、いつも前を向いている。
姉の死の真相を探るという、普通ならば困難で諦めるであろうことすら諦めることなく前へと進んでいく。
自ら道を切り開こうとする姿に、目が離せない。
そして初めて会った日に彼女が言った言葉が、今も胸に残っている。
『景天様は5年前皇弟として宮廷に戻られてすぐ、殺し屋のような闇稼業の取り締まりを強化し、貧しさから闇稼業に手を染める若者を防ぐために職の紹介まで定期的にされはじめました。おかげで治安は安定し、少しずつ民の暮らしは良くなって、涙を流す人は減っている。……あの時何もできなかった悔しさも、悲しさも、苦しさも、それら景天様のしてくださった事によって、少しずつ掬いあげられていった。そんな気がしたんです』
私の容姿を目当てに近づこうとする女性は多かった
だがそんなことよりも、ただ私のやってきたことを評価し、尊敬の念を抱いてくれた蘭に、柄にもなく喜びで泣きそうになったのは彼女には内緒だ。
王栄と再会して二人にしかわからない世界を垣間見てから気づいてしまった。
気づきたくもなかった、この感情に。
「はぁー……まったくもって、厄介だ」
私がまた深くため息をつくと同時に、コンコンコン、と部屋の戸が叩かれた。
「何だ」
力なく返事をすると、入ってきたのは皇帝陛下の護衛──蓮だ。
手には大きな包みを持っている。
嫌な予感しかしない。
「景天様、皇帝陛下より桃華ま──」
「いらん、送り返せ」
何の嫌がらせでこんな大きな箱にぎゅうぎゅうに詰めて持ってくるんだ。そんなに私が嫌いか、兄上。
「そういうわけにはいかぬので、ここに置いておきます」
蓮は淡々とそう言うと、机の上にドンッとその大きな包みを置いた。
いらん……。後で蘭にでも──あぁいや、今は私の顔も見たくはないだろうしな……。
「それと景天様。陛下より言伝が」
「陛下から?」
「明日の朝、蘭殿を迎えに遣いをやるので、支度をしておくように、と……。景天様は忙しいだろうから、見送りはいらぬとのことです」
「だ──っ!!」
『誰のせいで忙しいと思ってるんだ』
口から出かかったそんな言葉を寸でのところで飲み込んで、私は大きく息を吸ってから気持ちを落ち着ける。
仮にも皇帝陛下だ。
絶対的な権力を持つ男に今あからさまに牙をむけば、私のこれまでが無駄になる。
ようやく私のこれまでしてきたこと、今の仕事の成果が認められ、皇帝は私の方がふさわしいという声が出始めたんだ。
今ここですべてを無駄にしてはいけない。
「はぁ……。わかった。そのように」
私が力なくそう答えると、蓮は表情を変えることなく頷いて「それでは私はこれにて」と丁寧なお辞儀をしてから部屋を後にした。
再び静まり返った広間で、私は虚空を仰ぎつぶやいた。
「永寿……早く帰ってきてくれ……」