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第62話 老師の危篤

そんなある日のこと──。


「え……。……何で……ここに……」

朝から皇帝陛下に呼び出されて後宮から外宮に来てみれば、陛下と共に陛下の執務室で待っていたのは、しばらくぶりの景天様と、もっとしばらくぶりの永寿様のお二人だった。


「私も来るつもりはなかったのだがな。どうしても、君に伝えねばならないことが出来て、仕方なく来てやった」

「んなっ!!」

妙にとげとげしい物言いに私の脳内着火装置が作動しそうになるも、一応皇帝陛下の御前。

ぐっと両手に力を込めて我慢をする私、えらい。


「仕方なく来るほどに伝えねばならないことって何でしょうね? 会食に桃華饅頭でも出ました?」

「なっ……!!」


景天様の屋敷では食事に桃華饅頭が出ることはないが、他所の屋敷でも会食では度々出されることがある。

それらは全て、なんやかんやと理由をつけて私が代わりに食べて差し上げていたのだけれど、今回もそのために帰ってきてほしいと言い出したのだろう。

ふん。ようやく私の偉大さに気づいたか。


「はぁ……。……永寿、頼む」

「わかりました」

いつになく真剣な様子の二人に、私は思わず息を呑んだ。

というか、永寿様、少しげっそりして見えるけれど、一体曽蓉江で何があったのだろう。

眉を顰める私に、永寿様が一歩前に出ると、私に目線を合わせて静かに口を開いた。


「蘭。落ち着いてよく聞いてください。────老師が……老師が、危篤状態となっています」

「!? 老師が……危篤……?」

永寿様は何を言っているの?

老師が危篤だなんて、そんな──悪い嘘だ。


だって数か月前は元気に私に修業をつけてくれていたもの。

一緒に暗器を手入れして、用心棒のお仕事をして、報酬で美味しいお肉を食べた。

ここへ送り出してくれる時だって、変わった様子はなかったし、時々来る文にも何も……。


「そんなわけ……。もうっ!! 老師の案で私を騙そうとしてるんでしょう? 無駄ですよ、そんな手には──」

「蘭。……老師は、あなたに知らせることなく、一人で逝くつもりでしたよ」

「っ!!」

「それでも私を呼んだのは、あなたの今後のことを頼むため。身辺の整理の為です。──これを」

永寿様は懐から一本の巻物を取り出すと、それを私に手渡した。


「戸籍証明……遺品受け取り……っ、これって……」

そこに書かれていたのは、老師の大切な私物の相続についてと、私を養女とする旨の証明。

そして、前皇帝陛下から賜ったという筆やすずり、貴重な本などすべて、私に相続する、とされた文言。


「そんな……。これじゃまるで……」

──本当の事みたいじゃない。


「自分がいなくなって、私物がすべて捨てられるか他の者の手に渡るのは忍びないと、決断されたようです。ずっと、あなたの戸籍をいじることをためらってきた、と。血縁の無い、しかも元暗殺者である自分と戸を同じくしては、蘭や蓉雪皇后が可哀想だから、と……。それでも、たった一人残してしまうあなたのためにと、手続きをなされたのです」


静かにゆっくりと降り注ぐ、耳をふさぎたくなるような言葉の雨が、聞き分けの無い子供を諭すように現実を突きつける。

鼓動が早く、強く胸を打つ。

私はそれをゆっくりと深呼吸をして落ち着けると、絞り出すように永寿様に尋ねた。


「……老師は……まだ……?」

「えぇ。まだかろうじて。私がすべての整理を終えると、蘭には言うなとだけ告げて、私も帰るように言われました。おそらくたった一人でその時を迎えるおつもりなのでしょう。あの頑固おやじは」


困ったように言った永寿様の永寿様らしくないその言葉に、彼にとっても老師は大切な存在なのだと気づく。

「っ……」


会いたい。私の最後の家族に。

声が聞きたい。聞けなくなる前に。

ありがとうも何も伝えられないまま、また失うのは──嫌だ。


「皇帝陛下、私──っ」

「行って来るがいい」

「!!」

いつもの無表情ながらも、その声は柔らかい。


「後悔の無いように。景天、そなたは柳蘭に付き添うように」

「わかりました」

皇帝陛下の言葉に神妙にうなずく景天様。

驚いた。きっとい嫌そうな顔でもするかと思ったのに、わずかばかり滲むのは私への憂慮の念。

「景天が留守の間は、永寿、そなたに仕事の代理を頼む」

「心得ております」

頭を下げる永寿様に、皇帝陛下は頷くと、新しい巻物を机の中から取り出し、それを机上へと広げた。


「これを、老師に渡してほしい」

皇帝陛下はサラサラと短く何かを書き込むと、再び巻物を筒状にしてく繰り上げ、切れ目に印章を押すと景天様へと手渡した。


皇帝陛下の印章付きの文。

送られた相手以外が見られぬよう割印されたそれは、とてつもなく大切なことが書かれているということだ。


「柳蘭よ」

「はい」

「見とどけて来てくれ。蓉雪の分も──」

「っ……はいっ……!!」

こうして私は、その日のうちに景天様と共に馬に乗り、都・小明を発った。



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