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第66話 その香りは


「すぅー……はぁー……」

老師の死から一夜明け、外の井戸で顔を洗った私は、そのまま澄んだ空気をお腹いっぱいに吸い込む。


あぁ、この所々で家畜の匂いが入り混じったこの感じ。曽蓉江だ。


帰って来たんだ──そうあらためて実感するとともに、失ったものの存在がずしんと胸に圧し掛かる。

ここにはもう、姉も、老師もいない。

まるで私ただ一人だけが取り残されてしまったように感じられて、ひどく、そう、無だ。


「蘭。朝食が出来たぞ」

「景天様」


そうだ。私は今一人じゃない。

この人がいたんだった。


おおよそ主人が言うものではないような言葉と共に現れた景天様は、両手に椀を一つずつ持って、これまたおおよそ主人の姿とは思えぬ姿で屋敷から出てきた。


「い、今行きますっ!!」

私はそう言ってもう一度大きく息を吸うと、まだ老師の匂いの残る屋敷の中へと入っていった。


***


「ふむ、食べごろだな。今夜はこれにしよう」

誰が思うだろうか。

真剣に店先で品定めをし、ご機嫌で林檎を手にする美しい男性が、この国の皇帝陛下の腹違いの弟だなんて。


何ていうか、いつも思う。

皇弟がこんなに料理上手でいいものなのだろうかと。

もう天下取るのやめて料理人になった方が良いんじゃないか、と。


そう思うほどに極上の料理をたいらげて、私は今、景天様と村の市場で食料の買い出しをしている。


今日一日で遺品目録の照らし合わせや書類確認を終わらせて、明日の朝、都・小明シャオメイへ帰る予定だ。

ゆっくりはしていきたいけれど、いつまでもここに居ても仕方ないし、何より都で景天様の代わりにお仕事を下くださっている永寿様に申し訳がない。


「あら、蘭ちゃんじゃないのっ!! 老師のこと、残念だったわねぇ……」

「おばさん。昨日はお花をありがとうございました。おかげで綺麗な花を添えて老師を旅立たせることができました」


声をかけてくれたのは近所に住むおばさん。

葬儀の際には老師に、と、ご自身で育てられた花を持って来てくれたのだ。


「いいのよそんなことっ!! 困ったことがあったら、何でも言うのよ? ご近所なんだから、遠慮は無しよっ!!」

「ありがとうございます」


私が礼を言うと、おばさんの視線は隣の景天様へと移った。


「それで? その方はもしかして……蘭ちゃんのいい人なのかい?」

「へ?」


いい、ひと……?

え、景天様が……?


「はぁ!? いや、いやいやいや無理です!! 目の毒なんで!! この人!!」

「おい」


何よりいずれ景天様が皇帝になんてなったりしたら、その妻は皇后だ。

無理。絶対無理。

ドロドロに巻き込まれるなんて、毒と嫌味の贈り合いみたいな生活だなんてごめんだ。めんどくさい。


私は諸々が終わったら曽蓉江でまったり一人余生を楽しむんだから。


「ごほんっ。こちらは私のお仕事の上司です。老師の危篤を聞いて、私に付き添ってここまで来てくださっただけの」

間違ってはいない。

ただちょっと、身分が高すぎるだけの、そう、上司(主君)だ。


「おや、そうだったのかい。あ他者てっきり蘭ちゃんの結婚相手かと思ったよ」

「あたしもそう思ってたよ!! 息子何てそれで昨日の葬儀後から寝込んじまって……」

「うちの息子もそうさ!! こんな美形が蘭ちゃんのお相手になるんなら、勝ち目はないってね」


話を聞いていたらしいおばさん達が次々と終結して、あっという間に井戸端会議に発展してしまった。


「ほう? 人気者じゃぁないか」

「もうっ!! 何言ってんですかっ!! おばさんたちも!! 色々誤解ですからっ!! 息子さん達も葬儀でうちの上司の色気にあてられただけだと思います!! 女性達みたいに!!」


先ほどからひしひしと感じる視線。

それは村の女性達から注がれる、景天様への熱視線だ。


仕方がない。

だって景天様は、この村の誰よりも、いや、おそらくこの天明国の誰よりも顔が良いのだから。

滅多にお目にかかることのない程の色男にざわつくのも無理のない事なのだ。


「ふむ。そういうことらしい。ご婦人方、ご子息型によろしく伝えておいてくれ」

さも人ごとのようにさらりと言った景天様に、おばさんたちもポーッとして頷いた。


この人たらしめ。


***


「──もうっ!! その無駄に発光した感じ、どうにかなりません!?」

「どうにかしようとしてどうにかなるものではないからな。私のこのあふれ出る威厳は」


威厳じゃない。色気だ。

人間離れしたその造形美が、人を狂わせているのだ。


「でも君は平気じゃぁないか」

「へ?」


立ち止まり、じっと私を見下ろした景天様を、私も足を止めて見上げる。


美しく凛々しい紫紺の瞳。

艶やかな漆黒の髪。

しゅっと引き締まって程よく筋肉の付いた身体。


うん、どこをどう見ても美男子だ。

あれ? でもそういえば私、この人に対して見た目でドキドキしたりぽーっと目を奪われたりしたことは……ないな。


「……もしかして私……、女じゃない……?」

「何を馬鹿なことを言っているんだ」


だってそうとしか考えられないじゃないか。

女性は老若関係なく虜になってしまうというのに、私ときたらそんなことも欠片もないうえにご飯を作ってもらって面倒見ていただいているのだから。


「はぁ……。安心しなさい。世の中私を見てもどうも思わない女性だっている。……希少種だろうがな」

「……」

自分で自分の破壊的造形美をよくわかっていらっしゃることだ。


「それより、食料の買い出しも済んだし、そろそろ帰るぞ」

「はい、そうですね。行きま──」

「──蘭?」


私が足を進めようとしたその時、背後からふんわりとした女性の声が私の名を呼んだ。


林杏リンシン!! わぁ~、久しぶり!!」

振り返るとそこにいたのは村での友人──林杏だった。


「昨日は老師の事、残念だったわね。体調が悪くて葬儀に行けなくてごめんなさい」

「いいのよ、ありがとう。それより体調は大丈夫?」


少しばかり顔色が悪いみたい。

青白くて、とてもじゃないけれど大丈夫には見えない。


「えぇ、今は少し収まっているわ。……あのね蘭。私、結婚したの」

「けっ、結婚!?」


予想もしていなかった報告に思わず大きな声が出て、隣で景天様が耳を塞いだ。


「おめでとう……!! たくさん幸せになってね!!」


林杏はまだ8歳の頃にお母様を病気で亡くして、お父様と、そして4歳の弟と1歳の妹の面倒を見てきた苦労人だ。

お父様が仕事の間、妹や弟の面倒を見ながら家事をこなして、いつも自分のことは後回しにしていた。

たくさん苦労をした分、たくさん幸せになってほしい。


私が飛び上がって喜ぶと、林杏は照れくさそうに「ありがとう」と答えてから続けた。


「あのね、それで、その……。お腹に、赤ちゃんもいるの」

「へ?」


赤……ちゃん?

こ、ども…………? って‥………。


「えぇ~~~~~~~っ!?」

再びあふれ出た爆音に、景天様が同じように耳を塞ぐ。


「だからね、この体調不良は赤子がいる初期の症状で……。食べてもすぐ吐いてしまうから、今吐き気止めをもらいに行ってきたところなの」

そう言って提げていた籠から薬が入っているであろう小袋を取り出して見せる。


それと同時に、すっきりとした花に通る香りが漂う。


あれ……? この匂いって……確か──。


「そうだったの……。本当におめでとう!! たくさん、たくさん幸せになってね、林杏」

「ありがとう、蘭。あなたもね。私、あなたの幸せをずっと願ってるわ」


私達は強く抱き合ってから、笑顔で分かれた。


そして私は帰路に就きながら。先ほど浮かんだその“可能性”についてを、ただただ考えてしまった──。












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