彼女だけ、いない。
「ベアーグラスは、だめなの?」
緑は陽子に訊いてみる。
「なんでか、だめなのよね」
陽子は首をかしげた。
「育てれば、緑のラインのきれいなのに、なるはずなんだけどね」
緑はなんとなく覚えている。
ベアーグラスの、彼女のことを。
独りぼっちの女神のことを。
陽子は植物の名前を羅列する。
緑はどこか聞いたことのある皆の名前を、
上の空で聞いていた。
彼女がいない。それだけを。
「緑」
陽子が声をかける。
「はい?」
「またおしゃれして。今日もデート?」
少し間がある。
緑はようやく、約束していたことに思い当たった。
「あ!行かなくちゃ!」
緑は思い出す。今日もケイと会うことを。
あわてて温室を飛び出す。
植物と両親が、笑いながら見送った。
庭に風が吹く。
温室内にも風が入る。
陽子の温室は、一つの夢の町でもあった。
緑は風のように部屋に戻り、
荷物を一通りバッグに詰め、
あわててシューズに履き替え、
駆け出した。
まだ間に合うけれど、彼女を待たせたくないと思った。
荷物を詰め込む際、
懐中時計を一緒に詰め込んだ。
元、壊れた時計。
腕時計もしているが、まぁいいかとバッグを持った。
緑はバス停まで駆ける。
太陽はさんさんと。明るく降り注ぐ。
温室のぼんやりした太陽でなく、
ぼんやりとした光源でもなく。
それらの世界は近くにあった。
緑の中で、ある程度一つになった。
それでも、一番大事な彼女がいない。
あれらの世界で、女神として、柱としていた、
彼女だけいない。
彼女を内包できなかったのか。
この、風間緑の世界に彼女はいないのか。
緑はバス停で立ち止まる。
バスが来るまで、緑はあたりを見回した。
郊外の住宅地。
それでも、あちこちに植物がある。
バス停の通りの、街路樹だってそうだ。
風が街路樹を揺らす。
無口な風、さわさわとなる街路樹。
これらも、誰かの世界では、仲間になったり、話したりするんだろうか。
やがてバスが来る。
緑は駅行きのバスに乗り、窓の外を見る。
明るく輝く外。
生き生きと主張をしている。
日曜のお昼近く。
気分が沈んでいれば、きっとこんなに生き生きした景色も、灰色なんだろう。
ガラスがまぶしかったり、
瓦が輝いていたり、
街路樹が細かい陰影を作っていたり、
光と影のコントラスト、そして、輝く色。
花を飾る場所、美しい緑色。
行きかう人々の、おしゃれ姿。
今まで見てきたであろう風景。
大学に行くとき、いつもバスに乗っていた。
そして、行きかう景色を見ていた。
それでも、こんなに生き生きとして見えるのは、初めてだ。
世界が生まれ変わったような…
緑が生まれ変わったのかもしれない。
記憶が混乱しているけれど、生まれなおしたのかもしれない。
やがて緑は、駅前でバスを降りる。
時計を見る。
12時少し前。
時計台に向けて歩き出す。
緑はなんとなく、バッグから、懐中時計を出した。
時計台と見比べる。
やっぱり、もう、壊れていない。
同じ時を刻んでいる。
好き勝手に動く針も、生真面目な刻みも好きだった。
もう、ここにはないのかもしれない、あの世界の時間。
この大きな世界に、小さな世界を内包した、緑がいる。
彼女も見つからなくて。
緑は、ジャケットのポケットに、懐中時計をおさめた。
見つからないかもしれない、女神となった彼女。
この大きな世界が輝いて見えるのは、
大きな世界自体が、女神を含んでいるのかもしれない。
だから、きらきら輝いて見えるのかもしれない。
明るい太陽。
行きかう人々。
カップル、親子、ひとりもの、学生、仲間とともにいるもの。
様々の色彩が行く。
休日の駅前は、人がたくさんいる。
緑は、ただ一人の人を探す。
待っているであろう、ただ一人の人を。
昨日のように、また、先に来ているであろう人を。
緑は、時計台に向かって歩き出した。