鉛色の肌の悪魔は、背中の翼を羽ばたかせて浮遊している。しとしとと降り続く雨の中、不気味な間が、悪魔とラトゥンたちのあいだに横たわる。
「エキナ」
「射程外です」
阿吽の呼吸というべきか、ラトゥンが呼んだだけで、エキナはその意図を汲み取った。しかし残念ながら、彼女の処刑術の銃は届かない。
悪魔は、知ってか知らずか、離れた場所から様子を見ている。
「これが平地だったなら、距離を詰めたんだがな」
崖の中ほどに浮いている悪魔。崖を登らねば辿り着けず、歩いて近づくわけにもいかない。この雨で濡れた崖を登るのもナンセンスだが、悪魔のことだから登っているところを狙うだろう。
「迂闊に近づけないですね」
エキナも小さく首を横に振った。
「睨み合いだな……」
「ぐぬぅ」
ギプスは唸る。あまり気が長いほうではないのか、じれったそうだ。クワンは、悪魔から目を離さず、かすかにドワーフの方へ顔をずらす。
「狙いは何だと思う? あんなこれ見よがしに姿を見せているのに、様子見なんて」
「警戒しておるんじゃろう。……知らんけど」
適当なことを言うギプスである。悪魔との遭遇や戦闘の経験は、あまりないのかもしれない。日常を生きる中で、そう頻繁に悪魔と出くわしても困るが。
「悪魔は用心深い」
ラトゥンは、何か手はないか考えつつ、しかし相手から目を離さない。
「特に、ああやって様子見をしている奴はな」
「ギプスの旦那、あんたの機関銃で何とかならないのか?」
「そうしたいのは山々じゃがな……。あれが、わしを見逃してくれるか……」
下手に動けば、注意を引いて攻撃されるのではないか。
「どうかな、旦那は体が小さいし……」
「おいこら」
クワンの言葉に、ギプスは顔をしかめた。ラトゥンは、後ろにいるカッパーランドに小声を出す。
「大丈夫か?」
「ええ、何とか……」
街道の障害物について案内しただけのカッパーランドである。まさかその途中で、悪魔と遭遇するなど、不運としか言いようがなかった。
「これまで悪魔と遭ったことは?」
「あんなにはっきり見たのは初めてです……」
顔面蒼白のカッパーランド。常人が悪魔を目の当たりにして、恐怖しないほうが稀だ。
「迂闊に動かないように」
ラトゥンは注意する。
「動いた奴から狙われる」
生き物の目というのは、動くものを優先的に捉える傾向にある。
「だが、逃げられる心構えだけはしておいてくれ」
「わかりました」
コクコクとカッパーランドは頷いた。
とはいえ手詰まりである。当たらないのを承知で、ライトニングスピアの魔法を使うか――ラトゥンは考える。
距離は届くが、お互いにじっくり観察している中でぶっ放すには、少々電撃の魔法は目立つ。悪魔としても余裕で回避できてしまうだろう。
こういう場合は、先に動いた方がよくないが、このまま睨み合いをするにも限度があった。雨は弱まる気配がない上、かなり暗くなってきている。これで夜になってしまえば、見通しはさらに悪くなる。
――動くか。
ラトゥンは覚悟を決めた。
「ギプス。俺が魔法で奴をけん制する。その間に機関銃を取りにいけるか?」
「おう。任された」
ギプスは即答した。援護さえあればやれる――おそらく彼もまた、ラトゥンと同様の考えに思い至っていたのだろう。
「よし、それでは――」
ラトゥンが左手を悪魔へと向ける。ライトニングスピアを放とうとして、違和感をおぼえる。
悪魔が後退を始めたのだ。降りしきる雨の中、その姿はあっという間に霞の如く、消えた。
「引いた……?」
「そのようだな」
クワンは目を凝らす。カッパーランドが忙しそうに目線を周囲に走らせた。
「逃げたのですか? もう大丈夫なのですか?」
「……」
大丈夫なのか、という質問には答えられない。見えない位置まで下がっただけで、そのまま去ったのか、あるいは何か企んでいるのか、判断がつかないのだ。
「いったいなんだったんでしょうか?」
エキナが首をひねる。さあな、とラトゥンも肩をすくめるしかなかった。
・ ・ ・
すっかり暗くなったので、隊商はその場に留まり、キャンプとなった。
障害物の破壊、撤去は明るくなってからやるということになったので、動きようがなかったのだ。
「しかし、気味が悪いな」
クワンは神経質そうに表情を雲らせた。車にまで戻ったラトゥンたちは、携帯食を囓りながら、時間を過ごしている。
しとしとと雨が続いているので、外で薪を燃やすこともできず、ドワーフの携帯魔石灯のほのかな明かりだけが、この暗闇の中、手元を照らすだけの光源を提供している。
「あの悪魔、まだ近くにいると思うか?」
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
ラトゥンは、干し肉を齧る。火を起こせないのでスープもなし。温かい料理にはありつけない。
「倒していないから、わからない」
「仮に倒したとしてもだな」
ギプスが機関銃を抱えながら、携帯食に手を伸ばす。
「野宿となれば、獣どもに備えねばならないから、何も変わらん」
「いや、ギプスの旦那。そこらの獣と悪魔じゃ格が違うぜ?」
「悪魔も気になりますけど……」
エキナが外を見張りながら言った。
「ロックエイプも気になります。あれは夜も活動するのですか?」
「夜行性ではないのぅ。今頃、ねぐらでおやすみじゃ」
ギプスは笑った。ラトゥンは、ドーハス商会の馬車の方を見張る。護衛のハンターが見張りをしているが、今のところ異常はなさそうだった。
「悪魔も夜は寝てくれると楽なんだがな」
より警戒しなければならないという点で、夕方の悪魔の出現は厄介以外の何ものでもなかった。