不思議な人だと思った。
エキナは、ラトゥンという男性にそう感じていた。
知らない人のはずなのに、知っているような気がする。それは幼い頃に親しくした兄弟子と名前が似ているせいか。
ラトというその友人を、ラトゥンに重ねてしまう。
しばらく会っていなければ、お互い変わるものだとはわかっている。顔立ちは、ラトとラトゥンは別人だ。あれから成長したって、こうはならない。
だが彼は『暴食』――悪魔を宿し、その姿を変えることができる。
元は人間だという彼の言葉を信じるかは別の問題だが、それが本当だとする。姿を変えられるのならば、今の姿は以前とは別ではないか。
つまり、あのラトが、ラトゥンの姿になっているのではないか?
初めて会った時、彼はエキナのことを知っていると言った。自分が貴族の娘だから、それに関係して多少知っているという風ではあった。
だが接し方が、少し知っている程度のそれではないと思えるのだ。悪魔と契約し、処刑人として恐れられた人間に対して、彼は偏見なく接した。差別をしない人というには、あまりに寛大で、優しかった。まるで昔から知っている友人のように。
決定的だったのは――
エキナは自身の首の後ろを、そっと撫でた。
――あの時、ラトゥンはここを撫でた。
それは、領地内にある剣の道場にいた頃、頭を撫でられるのが苦手だったエキナに、ラトが褒める時に首の後ろを撫でたのだった。
髪に触られてくしゃくしゃになるのが嫌だったということだったのだが、それならということで、前髪などに触れずに褒める方法というのがそれだった。しばらく道場でその褒め方が流行ったのだが、少なくとも他では見たことがない。
つまり、その特殊な褒め方をしているのは、あの道場にいた者ということになる。そしてエキナが知る限り、ラトゥンという男があの道場にいた覚えはない。
――ラトゥンは、ラトだ。
エキナは確信する。
彼がラトであるなら、これまでの振る舞いや、エキナへの接し方に合点がいく。処刑人になる前のエキナを知っているから、偏見を持たずに振る舞えるのだ。
それでなくても死刑執行を担う処刑人は、触ることも話すことも拒絶されるほど、差別される職業だ。今でこそ、処刑人の格好はしていないが、それも彼が親身になって考えてくれたからだ。
ラトゥンはラトだった。それはとても嬉しい。
――わたしのことを、あの頃からずっと信じてくれているんだ。
処刑人になっても差別しない彼の清い心は、あの頃と変わらない。
だが同時に思う。どうじてラトは、本当のことを話してくれないのだろうか、と。
彼はエキナのことを知っている。ならば、暴食――悪魔となったとしても、自分のことを話してもよかったのではないか。
何故、話してもくれなかったのか。
――たぶん、悪魔になったのを信じてもらえないと思ったから……?
エキナは考える。悪魔は狡猾だ。人の心につけ込むためならば、手段を選ばない。親しい人間に化けて騙すというのは珍しくない。
最初から、彼が正直に自分が『ラト』であると告白したとして、信じることができただろうか。エキナは自信が持てなかった。
あの時は、自分は差別されて当然と受け止めていて、周囲から善意を受けられると思っていなかった。
では今はどうだろう? 実は自分はラトだった、と彼が告げてきたら……。
――もちろん、信じる!
短い付き合いだが、これまでの彼の言動は一貫してエキナに好意的で、それはかつてのラトのそれと同じだ。むしろあの少年が立派な大人になって、嬉しくもあり頼もしくもあった。
――彼は、ずっとこのことを黙っているつもりなのかしら……?
エキナは疑問に思う。彼は、元の人間の姿に戻る方法を探して旅をしている。暴食となる原因である聖教会への復讐も行っているが、今は鍵を握ると思われる魔女の隠れ家を目指している。
――彼の言う通り、人間に戻れたなら……。
その時は、元のラトの姿になるのだろうか。そうなれば、ラトゥンを名乗る必要もなく、自然と自分がラトだったと白状するしかなくなる。
――もしそうなら。
元の姿に戻るまで、彼はラトゥンであり、ラトを名乗ることも、明かすこともない。
エキナは、そう結論を出した。
もちろん、それは彼が決めることで、あくまでエキナの勝手な想像でしかない。もしかしたら彼は別の機会を窺っているのかもしれない。
では、自分にできることは?――エキナは自問するのである。
『わたし、知っていますよ』
――うーん、違うか。
『いつまで、わたしに黙っているつもりですか?』
――……これも違う。
エキナは腕を組んで考える。そもそも、彼がラトだから、何だというのか?
彼が黙っているのに、自分からそれを明らかにするようにアプローチをかけるのは、迷惑ではないのか。
――わたしは、ラトにもう秘密にしなくていいんですよって、言いたいだけなのに。
秘密を抱えたままというのは、精神的に疲れるのではないかとエキナは思う。だから少しでも彼には、気苦労や後ろめたい思いなどを忘れてほしいのだ。
「……エキナの姐さん」
不意に声をかけられ、エキナは声の主であるクワンを見た。
「さっきから、すっごく難しい顔をしているけど、大丈夫? どこか具合が悪いのかい?」
「難しい顔?」
していたのかしら、たぶんしていた――エキナは恥ずかしくなった。ここ最近、仮面を外しているが、それまではずっと仮面をしていたから他人から突っ込まれることはなかった。
――ラトゥンのことを考えていたなんて、言えるわけがない。
彼が過去を隠していることは、クワンやギプスには関係ない。ミゼリコーディ領地のラトだから、彼らにとって何だというのだという話なのだ。どうでもいい話なのだ。
「どうした?」
前からラトゥンが振り返った。これはますますよろしくない。
「何でもないです」
エキナは、そっと処刑人の仮面をとるとそれをつけた。これ以上、周りにどうこう詮索されたくない。無性に恥ずかしくてたまらない。
「姐さん、その仮面――」
「クワン」
ラトゥンが睨むような顔で、首を横に振った。何となく触れてはいけないのだと察したか、クワンは座り直した。
――こういう気遣いの人なんだ、ラトは。
余計なボロを出さずに済んで、しかし同時に申し訳なくなるエキナである。ラトゥンがラトであること、それを自分から言ったり、確認しようとするのはやめようと思った。
彼が隠しているのなら、そのままで。その時がきたら、きっと明かしてくれる――そう信じて。
それまで、エキナは待つことにした。