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第83話、その谷、魔境


 うっすらと霧がかかっている。

 そこはグレゴリオ山脈のタラバ山とカシー山の間に溝の如く刻まれた谷。そこが魔女の隠れ家があるとされる谷の入り口だ。

 手前で停車した車から、ラトゥンはそれを見下ろした。


「見えないな」

「外側だけだよ、旦那」


 クワンが車から降りる。ギプスも運転席から降りて、給水作業を行う。


「あそこはいつ見てもあんな様子さ。ここからだと真っ白だけど、谷の中は、もう少しマシだ。でも覚悟したほうがいい」


 経験者は語る。クワンは物知り顔だ。やはり一度行った場所だけのことはある。


「あの谷の中の環境は、まさに魔境。何でもありさ」

「何でも……?」

「まあ、百聞は一見にしかず、さ。正直、言葉では説明は難しい」


 やがて、水の補給が終わったので、一行は乗車。まだ見ぬ谷へ――ラトゥンは気を引き締める。ギプスが谷の入り口である坂道を車で走らせた。


「酷い道だ」

「ここは道でのうて、谷じゃからのう」


 ごつごつとした地面、岩肌が車体を跳ねさせる。ガタンガタンと座っていると尻を持ち上げさせてくる。


「少しスピードが出てないか?」

「わしは、アクセルは踏んどらん。惰性にお任せじゃ」


 坂道を下る車である。乳白色の霧に突入……するかに見えたそれも近づくと、そんな濃くもなく、近場の視界をラトゥンたちに与える。しかし遠くのものは霧によって完全に阻まれていた。


「……急に緑の臭いがしてきた」

「ああ、谷の最初は森のようなもんじゃ」

「森、ではないのか?」

「見ればわかる」


 そればかりだ、とラトゥンは思った。坂が緩やかになり、土と岩だらけだった荒れ地を走っていた車の両側に、巨大な何かが通り抜けた。


「何だ……?」

「キノコじゃろう」


 さも当たり前のようにギプスは言った。荷台から顔を出したエキナも驚きの声を上げる。


「何ですかアレ?」

「キノコだってさ」


 ラトゥンが不承不承な調子で言えば、エキナは目を回した。


「いやいや、確かにキノコに見えますけど、あんな大きなキノコなんて見たことないですよ!」

「奇遇だな。俺もだ」


 高さ三メートルくらいはあるだろうか。谷の両側にお化けサイズの巨大キノコが無数に生えていて、林のようになっていた。


「魔境ね。なるほどな」


 こんな光景は、そこらで見られるようなものではない。水気を含んだ霧が屋根になり、キノコをここまで異常な大きさにしたのか。ジメジメした場所ではある。


「あのキノコ、雨宿りできそうなくらい大きいです」

「キノコって胞子をばらまくんだろう? あの大きさだ。近づきたくないな」

「それが賢明じゃぞ」


 ギプスは、谷の真ん中を行く。両サイドのキノコから一番遠くなる位置取りになるように。


「前にきた時は、そのキノコに近づき過ぎたのか、キノコの苗床になっておった生き物の死骸を見かけた」


 それを聞いたエキナが青ざめる。ラトゥンは首をかしげた。


「生き物?」


 この谷にどんな生物がいるか知らないので、興味本位だった。ギプスは、どこか躊躇いがちに答えた。


「人間ではないと思いたいがのぅ。もしかしたら……そうかもしれないし、あるいはゴブリン……いやオークだったかもしれんのう」


 あまり見られたものではない状態だったようだ。怖い怖い、とラトゥンはそれ以上は言わず、腕を組んだ。


「ん? ギプス、正面!」

「おおっと!」


 ハンドルを切る。谷の真ん中に何か――人くらいの大きさのキノコが、霧の中から現れたのだ。最初は岩かと思ったが、あの形はキノコであった。車は衝突を避けて、あっと言う間に通り過ぎた。


「いまのキノコ、歩いてなかったか?」

「足っぽいのが見えたのぅ」


 どうやら見間違いではなかったようだった。キノコに二本の足があって、谷を横断していたのだ。


「あれは……生き物なのか? 胞子にやられた生き物がキノコ化したのか……」

「さあ、わしは知らん。知りたくもないし、可能なら近づきたくない」


 ギプスは心底関わりたくないという態度だった。ラトゥンは、ふと思ったことを口にする。


「ギプスは、キノコは苦手か?」

「そうなのか、ドワーフの旦那」


 クワンが顔を覗かせた。


「キノコなんて地下にも生えてそうなものだけど」

「わしは何も言っておらんぞ。勝手に決めつけるな」

「好きなのか?」

「嫌いじゃ」


 憮然とした顔になるギプスである。そこで後ろから、エキナの引きつった声がした。


「あのー、後ろから何か、凄いのが追いかけてきているんですけど……」

「後ろ?」


 ラトゥンは振り返り、しかしよく見えない。クワンが荷台に戻り、エキナと後ろを見れば。


「わっ!? 何だありゃ!?」


 素っ頓狂な声をあげた。


「キノコだ! 足の生えたキノコが沢山っ! 追いかけてくるっ!!!」

「ギプス!」

「おうさ!」


 アクセル全開で、車は加速した。最高速度を叩き出す結果、排気管から煙がもくもくと噴き出る。

 ドドド、と波が押し寄せるに、大量のキノコが押し寄せてくる。わけがわからなかった。


「なんでキノコが!?」

「わからないですよ!」


 エキナが叫んだ。


「ギプスさん、急いでください! 車より速いですよ、あのキノコ!」

「車より速いキノコじゃと!? キノコの分際で、生意気じゃのうっ!」


 怒り顔になるギプス。嫌いというキノコが追いかけてくるとか、彼にとっては悪夢としかいいようがないだろう。

 これはギプスでなくても、キノコ嫌いになるかもしれない。絵面が酷すぎる。


「でも……。何でキノコが追いかけてくるんだ?」

「知らん!」


 ここに来たことがあるギプスとクワンの反応からすると、以前は遭遇しなかったようだ。新種か、あるいは前回来たという彼らはラッキーだったのか。


 スピードを出す分、またも谷底のおうとつに車が揺れたが、ラトゥンは御者台から荷台へと移り、後ろの様子を眺める。


 圧倒的な数のキノコが足をばたつかせるように動かしながら走っていた。まったくもって意味がわからなかった。

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