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第73話


 それからも鑑別方針を話し合う会議は数十分ほど続き、寺戸には長期的な視野を提示した働きかけをしていくことや、家庭環境については細心の注意を払いながら対応することが決まった。雫も、被虐待児の特徴や対応方法が書かれたテキストを何度も読んで、理解を深めていく。

 まだ寺戸が本当にそうだと決まったわけではないが、数日後に控えた寺戸への二回目の鑑別面接に向けて、雫は準備に余念がなかった。

 雫が別所から今晩一緒に夕食を食べないかと誘われたのは、寺戸への二回目の鑑別面接を翌日に控えた日のことだった。いささか急な誘いではあったけれど、雫も特に予定があったわけではないから、「お願いします」と頷く。

 以前も訪れた個室居酒屋に、取手を交えた三人で行くと言われたときには、雫は少し怯むような思いがしたものの、それでも返事は変わらない。取手と一緒に夕食を食べるのは初めてで、二人きりだったら緊張してしまうかもしれないが、別所が間に入ってくれるのなら、いくらか話しやすい空気のなかで食事ができるだろう。

 それに取手と自分は今まで話したこともあまりないから、ここで少し打ち解けておくのも悪くないだろうとも、雫には思えていた。

 仕事を終えると雫は別所とともに宿舎を出て、最寄りのコンビニエンスストアの駐車場であらかじめ呼んでおいたタクシーに乗り、夜の九時前に長野駅の善光寺口に到着していた。嘱託医である取手は、普段は市内の総合病院に勤めており、雫たちとは駅前で落ち合う形となる。

 雫たちが少し待っていると、取手は私鉄のホームがある地下から、エスカレーターに乗って現れた。「電車で来たんですか?」と雫が訊くと、「東口の地下駐車場に車を停めてきたんです」と取手は答える。

 その返事に雫は頷きながら、取手は今日は酒を呑むつもりはないのだと認識した。

 駅前で落ち合った三人は、信号を渡った先にある個室居酒屋に向かう。ビルの階段を下って、地下にある店内に足を踏み入れると、控えめな照明に雫の心は引き締まった。

 四人掛けの小さな個室は橙色の柔らかな天井照明が、雫にそこまで硬くならなくてもいいよと語りかけてくる。でも、何年も先輩の職員二人との夕食に、雫はまだ緊張せずにはいられない。

 そんな雫に配慮したのか、別所は雫と取手が向かい合って座ることのないように心がけていた。比較的慣れている別所が隣にいて、雫の心もわずかに落ち着けていく。

「それでは、今日も一日お疲れ様でした。乾杯」

 穏やかな声で取手が音頭を取ると、雫たちはグラスを突き合わせた。頼んだドリンクは取手がウーロン茶、雫と別所がノンアルコールビールだ。

「そういえば、取手さん。淳也じゅんやくんと智章ともあきくんは、最近どうしてるんですか?」

 ノンアルコールビールに口をつけるやいなや、世間話をしようというようにそう切り出した別所に、雫は少し目を丸くしてしまう。それは、雫が一度も聞いたことがない名前だった。

「ああ、もしかしたら山谷さんは、初めて聞くことかもしれませんね。僕、子供が二人いるんですよ。こう見えて」

 取手は微笑みながら答えていて、それは雫にも少しも不思議なことではなかった。

 取手の年齢が五一歳であることは、雫も知っている。子供がいたとしても何もおかしくないだろう。

「そうだったんですか。その二人のお子さんは、今おいくつなんですか?」

「兄の淳也が二一歳で、弟の智章が一九歳です。今は二人とも、東京の大学に通っていますよ」

「そうなんですね。すいません。初めて知ったもので」

「いえ、謝る必要はないですよ。僕も今まで言ってなかったので、当然だと思います」

 取手が穏やかな表情でフォローを入れてくれたから、雫も気に病まずに済んだ。既に二人の息子の子育てをある程度終えていることを知ると、取手がより立派に見えてくる。

 別所に「で、息子さんたちは最近どうしてるんですか?」と改めて訊かれて、取手はさらに口元を緩めていた。

「そうですね。淳也はもう来年には就活生ですから、今は少しずつ就活の準備を進めているようです。経済学部という僕とはまったく違う分野に通っているので、アドバイスできることは少ないんですけど、でも相談に乗れることは乗ってあげたいなと思っています」

「そうなんですね。智章くんはどうしてるんですか?」

「智章も、勉強やバイトに精を出しているようです。国際学部に所属していて、来年には留学も控えているので、今は英語の勉強により力を入れていると言っていました」

「それは良いですね。留学はどこに行くんでしょうか?」

「イギリスに提携している大学があるそうなので、そちらに行くことになるようです。半年間の長期留学で、慣れない暮らしや文化の違いなど色々心配なことはあるんですけど、でも本人は楽しみで仕方がないと言っていました」

「それは心強いですね。私も取手さんの息子さんたちが充実した大学生活を送れているようで、良かったなと思いす」

「ええ、まあ二人ともここからが正念場なんですが、どうにか乗り越えられるように、僕もできることはしてあげたいと思っています」

 長い間一緒に働いていて、気心が知れているのだろう。別所と取手は和やかに会話を交わしていて、それは雫にも見ていて微笑ましく感じられるほどだった。疎外感もさほどない。

 それでも、雫はかすかな疑問も感じていた。個室の解れた雰囲気に何を言っても許されそうな気がして、雫は「あの、ちょっといいですか?」と、二人の会話に割り込む。

「なんでしょう?」と反応した取手は、相好を崩してはいなかった。

「あの、こんなこと言うのも失礼かもしれないんですけど、息子さんたちって医学部とかじゃないんですね」

「そうですね。医者の子供は医者にならなきゃいけないなんて、決まりはどこにもありませんから。意外でしたか?」

「はい。正直に言うと、ほんの少しだけ」

「まあ本音を言うと、僕にも息子たちには医学の道に進んでほしいと思う気持ちがなかったわけではなかったのですが、それでも二人が自分で考えて選んだ道ですから、今は納得しています。それに僕は総合病院に勤務していて、開業医ではないので。だから、僕の跡を継いでほしいというプレッシャーもなかったことも、二人の選択に関係しているのかもしれません。いずれにせよ、僕が願うことはちゃんと大学を卒業して、どんな仕事でもいいから、本人たちが幸せだと思えるような人生を送ってほしい。それだけです」

 実感を込めて言う取手に、雫も「そうですね」と頷いた。確かに親が願うことは、子供の幸せに尽きるだろう。

 大学にまで行かせてもらえて、取手の息子たちは幸せ者だなと雫は感じる。現実にはそれを願っても実現できない人もいるから、なおさらに。

「別所さん、山谷さん、少しお話をしてもいいですか?」

 そう取手が切り出したのは、雫や別所の近況報告も終わり、雑談の話題が少し尽きてこようかという頃だった。穏やかな表情を保ちつつも、目を少し真剣なものに変えた取手に、「はい、何でしょうか?」と答えた別所に続くように、雫も頷く。

 一〇分ほど前に注文した料理は、まだ運ばれてくる気配はなかった。


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