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第74話


「先日入所した寺戸さんのことなんですが……」

「寺戸さんがどうかされたんですか?」

「ええ、精神医学的な検査及び診察の結果、もしかしたら寺戸さんには愛着障害の傾向があるかもしれません」

 取手からその言葉が伝えられて、雫は目を瞬かせてしまう。

 もちろん雫だって愛着障害については、大学や集合研修で学んでいるから、大まかな概念くらいは知っている。

 まず愛着とは、主に乳幼児期の子供と母親をはじめとした養育者の間で築かれる、心理的な結びつきを指す。これにより子供は、人への基本的信頼感が芽生えたり、自分の身を守るための安全基地を手に入れることができるのだ。

 そして、この愛着が十分に形成されず、子供の情緒や対人関係に問題が生じる状態が愛着障害だ。とりわけ被虐待児は、この愛着障害を発症する確率が高いと言われている。だから、両親から虐待を受けている可能性がある寺戸に愛着障害の傾向が見られたとしても、大げさなほど驚くには値しない。

 でも、雫は鑑別業務をするなかでその言葉を聞いたことが初めてだったから、小さくない驚きを覚えてしまう。

「そうなんですか。でも、どうしてそう思われるんですか?」

「はい。寺戸さんは、私が診察をする際にも強い警戒を示していました。もちろん、鑑別所に来たからには警戒を示すのは当然でもあるのですが、でも寺戸さんのそれは、他の少年と比べてもとりわけ強いように見えました。また、問診をしてみても答える口調はどこか平坦で、情緒的な反応に少し欠けているように見えました。それに少し話をしてみても、自分はここに来るほどのことはしていないと言いたげな強情な面が見られて。愛着障害の診断基準である五歳以前の発症に当たるかどうかは判断ができないので、正式な診断はできないのですが、それでもこれらの特徴から私は、寺戸さんには反応性愛着障害の傾向が見られると考えています」

 人に対して過度に警戒する反応性愛着障害の傾向が寺戸にあるかもしれないと知らされて、雫は初回面接のときの様子を思い出す。寺戸は自分の質問になかなか答えない時間があったけれど、もしかしたらそれも雫を警戒してのことだったのかもしれない。

 それが試し行動だったにせよ、愛着障害の症状だったにせよ、寺戸に対するアプローチは今まで以上に考える必要があると、雫には思えた。

「なるほど。そうですか。確かに私が寺戸さんと接してみても、一度こうだと決めたらなかなか曲げない、頑固というか意地っ張りな一面は見られます。毎日の日記にも淡々とその日あったことを書き連ねていて、感情的な記述はなかなか見られませんし。他の少年とは少し様子が違うなとは感じていましたが、愛着障害かもしれないことには思い至りませんでした」

「はい。ですので、お二人にはその可能性も考慮した接し方を意識していただきたいです。たとえ反応に乏しかったとしても、粘り強く接していただきたい。僕が言うまでもないことだとは思いますが、鑑別のためには寺戸さんに信用してもらう必要があるので」

「分かりました。私もこれからはそのことを常に頭に入れて、寺戸さんと接したいと思います」

 そう答えた別所に続くようにして、雫も頷く。帰ったらまた、愛着障害について書かれた本を確認しなければならないだろう。

 言葉にしなくても同意していることは取手には伝わったらしく、目を細めてくれている。

 個室の雰囲気が再び緩み始めたタイミングで、店員が料理を持ってやってきた。棒棒鶏サラダや焼き鳥といった、この店名物の鶏料理がテーブルの上に並ぶ。

「じゃあ、食べましょうか」と取手が言って、三人は料理に箸を伸ばした。仕事の話も終わって、食事をしながらなんてことのない雑談をしていると、雫の緊張も次第に解けていくようだった。




 翌日。雫が寺戸への二回目の鑑別面接を行う日は、朝から雨が降っていた。もう一一月だというのに、季節外れの台風が近づきつつあるらしい。

 雫は資料をまとめ準備を整えると、寺戸の居室へと向かった。

 声をかけてからドアを開けると、寺戸は本を読んでいる最中だった。外国の児童文学を翻訳したその本に、雫が現れてもなお目を向けている。これも試し行動の一つなのだろうか。

 雫が「寺戸さん、面接をしましょう」と声をかけても、寺戸はすぐに立ち上がらなかった。本をキリのいいところまで読もうとしているのか、それとも意図的に雫を無視しているのか。

 雫は動じずに、少し間を置いてから再び声をかける。寺戸も本を閉じて、立ち上がる。

 でも、目はかすかに伏せられていて、雫の顔を見ることはまだしていなかった。

 第一面接室に入って、テーブルに向かい合って座っても、寺戸は顔を上げてはいなかった。心の中では、まだ雫を警戒しているのだろう。

 だから、雫は「それでは、今回の面接を始めます。よろしくお願いします」と言うときも、なるべく物腰柔らかな口調を心がける。

 でも、寺戸は小さく頭を下げただけで声を発してはいなかったから、雫はほんの少しでもやりづらさを覚えてしまう。

「寺戸さん、今日は雨ですね。朝からざあざあと降り続いてる。寺戸さんは、雨の日にはどんな印象をお持ちですか?」

 まずは何気ない雑談から面接を始める。そうすることで、寺戸の警戒や緊張を少しでも解けたらいい。

 そう思って雫は訊いたのだが、寺戸はやはり目に見える反応を返してはくれなかった。俯きかけたまま、口を引き結んでいる。

 地面を叩く雨の音が、雫にはより大きく聞こえるようだ。

「まあ、そんなに快いものではないですよね。正直に言うと、私も雨の日は少し苦手です。濡れるし、洗濯物は乾かないし。なるべく外に出たくないなと思うのですが、寺戸さんはいかがですか?」

「……僕もそうです」

 この日初めて寺戸の声を聞けて、雫はひとまず胸をなでおろす。反応があるというありふれたことが、雫に面接を続ける勇気を与えた。

「そうですか。やはり嫌ですよね。何でも天気予報によると、今日は全国的に雨だそうで。少し憂鬱ですよね。明日こそは晴れてほしいです」

「……はい」としか答えようがなかったのだろう。

 でも、寺戸が反応を示してくれただけで、雫には十分だった。表情にはまだ警戒の色が見られたが、それでも寺戸にも面接に応えようという意思はあるらしい。それは雫にとっても、ありがたいことに違いはなかった。

「では、寺戸さん。まずは先日行った心理検査の振り返りをしましょう」雫がそう言うと、寺戸も小さく頷いていて、雫は入所時に行った心理検査の結果をまとめたプリントを寺戸に提示した。

 それを見ながら、内向的な性格傾向があることや、反対に意地っ張りな部分もあることを、雫は寺戸とともに確認していく。

 寺戸は何かを喋ることはなかったが、それでも小さく頷くといった反応は示していて、雫の話を聞き入れているようだ。雫も説明しながら、少し手ごたえのようなものを感じられる。

 面接は順調とは言えないまでも、それでも大きなアクシデントもなく進んでいた。

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