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第77話


「そうだ。山谷さんだ。あの僕、上辻です」

 そう名前を出されても、申し訳ないことに雫にはすぐにはピンと来なかった。曖昧な反応しか返せていない雫にも、上辻は穏やかな表情を崩してはいない。

「覚えてないですか? ほら、以前ウチに担当している少年のことで、訪ねてきたじゃないですか」

 その言葉を聞いた瞬間、雫も目の前の相手が誰なのか、ようやく思い出せた。以前、雫は大石の鑑別のために、長野中央警察署を尋ねたことがある。上辻は、そのときに対応してくれた警察官だ。

 だけれど、一ヶ月以上前にたった一回だけ会った相手を覚えていられるほど、雫の頭に余裕はなかった。とはいえ、上辻の名前をここまで思い出せなかったことが、雫にはどこか後ろめたく思えてしまう。

「ああ、そういえば。あのとき対応してくれた方でしたか。お久しぶりです」

「はい。お久しぶりです。本当に偶然ですね。あの、山谷さんってカラオケよく来るんですか?」

「まあ、休みの日にはたまに。それより、上辻さんも今日休みなんですか?」

「ええ。お互いこういう仕事をしてると、なかなかカレンダー通りの休みとはいきませんからね。休めるときに休んでおかないと」

「そうですね。でも、せっかくの休みにここに来たってことは、上辻さんもカラオケ好きなんですか?」

「はい。休みの日は、ほとんど毎日と言っていいほど来ています。色々大変なとこもある仕事ですから、こういうときに発散させておかないと、と思いまして」

 自分と同じだ、と雫は思う。外では人の目があるから、大っぴらに歌うことはできない。だから、好きな歌を思いっきり歌いたいなら、カラオケ店に来るしかないのだ。

 休みの日は毎日のように来ているということは、上辻もそれなりに音楽が好きなのだろう。

 上辻はどんな音楽を好んで聴いているのか。雫は少し気になったけれど、手にコーラが入ったコップを持っていることが、雫に二の足を踏ませた。ドリンクバーは、あまり長居をするところでもない。

 だから、雫は「そうですね」と簡単な相槌を打つに留める。雫の意図するところが分かったのか、上辻も「じゃあ、僕そろそろ行きますんで」と、会話を終わらせようとする。

 雫が「はい。お互い楽しみましょう」と答えると、上辻も一つ頷いて店の奥へと向かっていった。少し間を置いて雫も自分のブースに戻る。

 奇遇なこともあるものだと思いながら、コーラを一口飲んでからまたすぐタブレット端末を手に取った。




 一人カラオケで多少なりともリフレッシュできた雫は、また鑑別所に出勤する。寺戸をはじめとした担当している少年の資料をまとめていると、ふと机の上の電話が鳴った。

 同じく職員室にいた湯原に先駆けて電話を取ると、受話器からは初めて聞く声が聞こえてきた。でも、電話の向こうの女性はすぐに「寺戸です」と名乗っていたから、寺戸の母親だと雫にもすぐ見当がつく。

 用件を訊くと、明日寺戸と面会ができないかと言う。いささか急ではあったが、それでも明日寺戸は午後に付添人との面会が入っているものの、午前中は空いている。

 そのことを寺戸の母親に伝えると、すぐに了承してくれて、明日の午前一一時から面会をすることが決まった。

 雫は電話を切ると、一つ息を吐いてから席を立った。両親との面会が決まったことを、寺戸に伝えなければならなかった。

 雫が居室の前に辿り着くと、内窓から寺戸が在室しているのが見えた。ノックをしてドアを開けると、寺戸も雫の方を向く。

 さっそく雫が明日の午前一一時から両親との面会が決まったことを伝えると、寺戸は目を伏せていた。かすかに唇を噛んでいる。

 それは両親との面会に気が進まないことを如実に表していて、雫はただ伝えただけなのに、後ろめたい思いを感じてしまう。

 思えば寺戸はオリエンテーションのときにも、面会には必ず応じなければならないのかと尋ねていた。それに両親から虐待を受けている可能性だって、まだ完全に否定されたわけではない。だから、寺戸の反応も雫には予想の範疇ではある。

 だけれど、正当と認められる理由がない限り、少年は面会を拒否できない。寺戸も少し間を置いたのちに「分かりました」と頷いていて、そのリアクションが渋々自分を納得させているように、雫には見えた。

 でも、雫にできることは「では、そういうことですので」と、声をかけるのが関の山だ。

 用件を伝え終わった雫は、寺戸の居室を後にする。明日の面会がどうなるか。寺戸の心に暗雲が広がっているだろうことは、雫にも感じられていた。

 翌日。自分の机でデスクワークをしていた雫は、午前一一時になる数分前に、職員室に鳴ったチャイムを聞いた。誰がやってきたのかも分かったから、他の職員に声をかけて職員室から出る。

 カードキーをかざして玄関を開けると、そこにはやはり二人の男女が立っていた。少し小柄な男性はコートの上からでも少し腹が出ているのが分かるが、女性は同じくらいの背丈でも痩身だ。

 二人から発せられる雰囲気は穏当なものだったけれど、取手の話を聞いている以上、雫は内心でわずかにでも構えざるを得ない。

「こんにちは。寺戸さんのご両親ですね」と雫が言うと、二人はやんわりと頷いていて、雫も表には出さなかったが、抱いている警戒は増していっていた。

 二人を第一面接室に通した雫は「ただ今寺戸さんを呼んできますので、少々お待ちください」と告げて、寺戸の居室へと向かった。

 雫がノックをしてドアを開けたとき、寺戸はドアの方に背を向けるようにして、横になっていた。体調が優れないのだろうか。

 雫が「寺戸さん、大丈夫ですか?」と声をかけても、寺戸は何も応じなかった。ドアの側に立つ雫からは、寺戸の表情さえ見ることができなくて、少しずつ自分に心を開いていた寺戸の態度が、振り出しに戻ったかのようにさえ感じてしまう。

「寺戸さん、ご両親が面会に来ていますよ。会うことはできそうですか?」

「……行きたくありません」

 具合を尋ねた雫に、寺戸は弱々しい声ながら、拒否する意思を見せていた。だから、雫が寺戸の家庭環境に抱く疑いは、より膨らんでしまう。取手の話も、にわかに現実味を増していく。

 だけれど、雫は寺戸の意思をすんなりと受け入れるわけにはいかなかった。特段の事情がなければ、少年は面会を拒否できない。

 雫は寺戸の身体を持ち上げて起こしたい思いに駆られながら、それでも穏やかな口調で尋ねた。

「行きたくない、とはどういうことでしょうか?」

「実は今、ちょっと頭が痛くて。こうして話しているだけでも、少ししんどい状況なんです」

 それが本当なのか仮病なのか、雫にはすぐには分からない。仮病だとしたら鑑別にもマイナスに働いてしまうが、それでも両親と面会する精神的負荷から、寺戸が本当に頭を痛めている可能性も、排除すべきでないと雫には思える。

「そうなんですか?」

「はい。朝起きたときから少し熱っぽくて。もしかしたら風邪か何かかもしれないです」

「分かりました。職員室から体温計を持ってくるので、少し待っていてください」

 雫が踵を返そうとしたそのときだった。寺戸が「やっぱりいいです」と、雫を呼び止めたのは。

 雫が振り返ると、寺戸はゆっくりと起き上がっている。その表情には、憂鬱の色が見え隠れしていた。

「やっぱりいいです、とはどういう意味でしょうか?」

「面会に行きます。面会時間は一五分なんですよね。それくらいだったら、何とか持ってくれそうです」

「いえ、本当に辛いのなら無理しなくてもいいんですよ」

「いえ、行きます」

 そう言って、寺戸は立ち上がる。体温を測ることで、仮病だと発覚してしまうことを恐れたのだろうか。それにしたって、仮病を使おうとした事実は変わらないのに。

 立ち上がった寺戸の表情は曇っていたけれど、顔色が優れないというほどでもない。雫は「分かりました。面会に行きましょう」と言って、寺戸とともに第一面接室に向かった。

 第一面接室のドアを開けた瞬間、寺戸の両親が送ってきた視線は、雫には「怪訝な」と言ってもいいように感じられた。寺戸を呼び出すまでに想定外の時間がかかったと思って、反射的にしたものだったのかもしれなかったけれど、寺戸からすれば竦んでしまってもおかしくない。

 両親は目をすぐに優しいものに変えていたけれど、それでも自分たちが入ってきたときに見せた態度に、雫は少し邪推してしまう。


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