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第79話


 寺戸と両親の面会は、会話が大きく発展することもなく、なし崩し的に終わっていた。面会時間を終えたとき、隆志はなおも不満げな表情を見せていて、それは誰にとっても一つの利もなかった。

 居室に戻ったときも、寺戸は沈痛にも見える面持ちを浮かべていて、仮病を使ってまで面会を拒否した寺戸の心情が、雫には理解できるような気がする。

 寺戸の両親を玄関先まで送っていったときも、奈月は「今日はありがとうございました」と礼を言っていたが、隆志は虫の居所が悪いことを隠そうとしていなかった。いくら寺戸が暴行を振るって検挙されたことが腹立たしくても、もっと取る態度はあるだろう。

 二人を乗せた車が鑑別所を後にしたとき、雫は深く息を吐いていた。面会への立ち会いが終わった安堵よりも、これからどのように寺戸と接していこうかと、途方に暮れる思いの方が強かった。

 雫が職員室に戻ると、さっそく寺戸の担当教官である別所が、面会の様子を尋ねてくる。雫は隆志が軽く声を荒らげていたことまで、包み隠さず話す。

「それは大変だったね」と励まされたが、自分よりも寺戸の方が、何倍も大変だと雫は思う。

 それでも別所は「気分転換に仕事が終わったら、一緒にご飯食べに行こう」と誘ってきて、特に予定が入っていない雫も、断る理由がなかった。「はい」と頷くと、「じゃあ、いつもの店予約しとくね」と言って、別所は自分の机に戻っていく。

 ただ居合わせているだけでも、寺戸と両親の面会に神経をすり減らした部分は雫にもあったから、美味しいものを食べて少しでも気分を変えられることは、単純にありがたかった。

 夜の八時に雫と別所は、宿舎の前で落ち合う。最寄りのコンビニエンスストアの駐車場に呼んでおいたタクシーに乗って、長野駅を目指す。

 駅前に到着して交差点を渡ると、百貨店の前には昨日には見られなかった巨大なクリスマスツリーが立っていて、もう年の瀬も迫っていることを雫に思わせた。

 そして、個室居酒屋があるビルの前に辿り着くと、そこには取手が立って待っていた。別所と二人での食事だとばかり思っていた雫は予想外の事態に、「どうしたんですか?」と思わず尋ねてしまう。

 取手が言うには、妻は友人とディナーを食べに行っているらしい。取手の家庭は長男次男共に東京で一人暮らしをしているから、取手と妻の二人しかいない。だから、その説明は雫にも納得できるものだった。

 地下の個室居酒屋に入ると、雫たちは奥から二番目の部屋に通された。オレンジ色の柔らかい照明が印象的な四人用の部屋に座って、雫たちはまずはドリンクメニューを眺める。

 ひとまず三人とも最初はビールにしようという空気ができていて、雫もそれに従った。注文して少ししてから、生ビールの中ジョッキとお通しの漬物が運ばれてきて、雫たちは慎ましく乾杯をする。

 喉を通る苦味に、雫は心が癒やされていくような心地を味わった。

 この日の雫たちは、三種類あるコースのうち、真ん中の値段のコースを予約していた。

 生ビールが運ばれてきて数分も経たないうちに、一品目のサラダが運ばれてくる。胡麻の風味が豊かなドレッシングがかかったサラダは、雫にとっても箸とビールが進む味だった。

 仕事の話も早々に終え、三人は食事をしながら取り留めのない雑談を交わす。応援しているサッカークラブの調子がなかなか上がらないと、別所は軽くぼやくように言っていたが、それすらも雫にはアルコールが入っていることもあって、和やかに聞こえていた。

 日頃の疲れを癒やすかのように料理と酒を嗜み、会話に花を咲かせる。それは雫にも心地よく感じられたが、でもどれだけ食べて呑んで話しても、寺戸たちの面会のときに抱いた居心地の悪さはいなくならなかった。

 でも、それをなるべく表に出さずに、雫は二人の話に合わせてできるだけ自然に笑う。

 そして、乾杯をしてからおよそ一時間が経った頃、別所のスマートフォンが着信音を鳴らした。「ちょっと電話に出てきてもいいですか?」と別所は訊いていて、雫たちも拒むことなく「どうぞ」と受け入れる。

「ありがとうございます」と別所が個室を出ていくと、雫は取手と二人、室内に残された。空気に少し遠慮深さが増す。

 思えば雫は、取手と二人きりになることはこれが初めてだ。親子ほど年が離れている取手に何を話せばいいのか、すぐには見当がつかない。

 取手が「山谷さん、どうですか? 仕事の方は慣れてきましたか?」と話を振ってくれたとき、雫は思わず助かったと感じた。

「はい。おかげさまで少しずつですが慣れてきました。もちろんまだまだ勉強すべきことは多いんですけど、それでも先輩方の助けもあって、今のところは何とかやれているかなと」

「そうですか。それはよかったです。でも、大変だったり困ったことがあったら、できるだけ周囲に相談してくださいね。僕もできる限りは相談に乗りますから」

「ありがとうございます」と返事をしながら、雫は内心少し穏やかではなかった。寺戸と両親の面談で生じた事態を引きずっている部分は、まだあったからだ。

 それでもなるべく表に出さないように努めていたのだが、取手には心のうちを見抜かれたのだろうか。

 取手は、穏やかな表情を崩してはいない。何を言っても受け入れてくれるような気がして、雫から言葉がこぼれ落ちる。

「あの、もしかして私、困っているように見えました?」

「はい、正直。あっ、でもお気を悪くされたらすいません。僕の思い過ごしって場合もあり得るので」

 きっと幾人もの子供と接してきて、洞察力が磨かれているのだろう。取手は少しの憂鬱さが混じった雫の表情を、見逃さなかった。

 雫の心も、正直に話す方へと傾いていく。一人で抱え込まずに他の人の頭や知恵を借りることは、恥ずかしいことではないはずだ。

「あの、取手さん、少し今日の話をしてもいいですか?」

 そう雫が言うと、取手も大らかに頷いた。だから雫は落ち着いて、今日の寺戸と両親の面会の様子を取手に伝えられる。寺戸の反応が芳しくなかったことや、隆志が声を荒らげていたことまで包み隠さず話す。

 取手も寺戸の鑑別に関係している人間だから、守秘義務違反には当たらなかったし、時折相槌を打ちながら聞いてくれたから、雫は最後まで一気に話せていた。

「なるほど。今日の面会でそんなことがあったんですね」

「はい。叱責されている寺戸さんを見ていると、本当に気の毒に感じられてしまって。担当教官である別所さんにも対応をお願いしたのですが、でも私が寺戸さんと関われる機会は、あとは面接が一回くらいしかなくて。どんな言葉をかければいいのか、今ちょっと迷っているんです」

 雫は、正直に心のうちを打ち明けた。それには少しの痛みが伴ったが、でもそうしなければ本当の意味で取手から有用なアドバイスは訊き出せないだろう。

 取手は「そうですね……」と、少し考え込むような素振りを見せている。その姿に、自分は適切でない相談をしてしまったのではないかと、雫は気を揉んでいた。

「山谷さん、以前僕には二人の息子がいるとお話ししましたよね」

 予想していなかった取手の返答に、雫は一瞬呆気に取られてしまう。でも、すぐに「は、はい。確か順也くんと智章くんでしたよね」と、返事を捻りだした。

「そうです」と取手は頷いていて、雫は間違ったことを言ったようではなさそうだった。

「実は、その次男の智章の方なのですが、本当は僕たち夫婦と血が繋がっているわけではないんです」

 取手が口にした事実を、雫はすんなりと呑みこめなかった。衝撃を受けた頭はすぐには働かなくて、「えっ、どういうことですか?」と思わず訊き返してしまう。

 重大な話に、取手の表情もいつの間にか真剣なものに変わっていた。


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