「智章は、三歳のときに児童養護施設から僕たちが、里子として引き取った子なんです」
取手の説明を受けて、雫はようやく少し腑に落ちた。「そうだったんですか」と相槌も打てる。
でも、それが寺戸の話とどう繋がるのかは、雫には未だに分からなかった。
「はい。実は妻がその当時、子宮頸がんを患ってしまいまして。それで子宮を摘出してしまったんです。かねてから僕たちは子供は二人ほしいなと思っていたので、そうなるともう養子か里子として子供を迎え入れるしか、選択肢はありませんでした」
取手の言葉は、真剣な表情に見合った重さを持って、雫の耳に届いていた。酒の勢いに任せて言っているとも思えず、雫は同じ女性として「奥さん、大丈夫だったんですか?」と訊き返す。
「はい。適切な治療のおかげで、今は寛解して元気に暮らしています。心配なさらなくても大丈夫ですよ」
そう答えた取手に、雫は内心で少し胸をなでおろす。今日だって友人とディナーに行っているのだから、今は大丈夫なのだろうけれど、それでも取手の口から聞いて安堵する思いだ。
「それで、智章のことですが」と話題を戻した取手に、雫も返事をしながら背筋を正す。
「智章は一歳を過ぎたときに、親の不適切な養護で児童相談所に保護された子だったんです。端的に言えばネグレクトですね。両親の適切な養護を受けられず、体重も同じくらいの月齢の子と比較しても、極端に痩せていたそうです」
取手が打ち明ける話に、雫は「そうだったんですか」と相槌を打つほかなかった。まさか智章がネグレクト、児童虐待を受けていたとは。
驚く一方で、雫は取手が智章の話を始めた理由を、それとなく察する。
「はい。実際僕たちが智章と始めて会ったときもまだ痩せていましたし、それに発育にも少し遅れが見られたんです。立って歩くことはできたんですけど、でも簡単な単語しか喋ることができなくて。三歳なら二語文を話していてもおかしくないんですけどね」
「あの、この言葉が適切なのかどうかは分からないんですけど、それは大変でしたね。それだと一緒に暮らし始めてからも、苦労なされたんじゃないですか?」
「ええ、おっしゃる通りです。一緒に暮らし始めてからも、智章はなかなか僕たちの家という、新しい環境に慣れてくれませんでした。ことあるごとに泣いていましたし、食事も最初はなかなか食べてくれませんでした。トイレも躾けられていなかったので、しばらくはオムツが欠かせませんでしたよ」
取手は昔を懐かしむかのように語っていたが、その状況を想像すると、簡単な言葉では言い表せない大変さに、雫は頭が下がる思いがした。きっと当時の取手も、毎日内心で頭を抱えていたことだろう。
「それはなかなか壮絶ですね」と返事をすると、取手も「ええ、正直とても大変でした」と答えてくれる。その口調には、実際に経験してきた者の重みが載っていた。
「でも、根気強く愛情を持って接していくうちに、智章も少しずつ僕たちに心を許してくれるようになったんです。泣く回数も減って、食事も一緒に食べてくれるようになりましたし、お漏らしをすることも減っていきました。少し遅れ気味だった発育も、徐々に取り戻せていっていて。五歳になる頃には、他の子と比べても遜色ないほどの発達ができていました」
「そうですか。それはよかったですね」
「ええ、おかげで学校生活も無事送れて、今は東京で一人暮らしをしながら、大学に通えるまでになっています。初めて会ったときからは、想像もできなかったくらいです」
しみじみと言うように語る取手に、雫も頷いて反応を返した。智章が今幸せかどうかは分からないが、それでも恵まれない境遇からは脱せられていて、雫にも純粋に良かったと思える。
それでも、取手の表情は再び引き締まって、雫も気持ちを切り替えた。
「だからというわけではないんですけど、寺戸さんのように児童虐待を受けている疑いがある少年と接していると、どうしても昔の智章のことを思い出してしまうんです」
取手がそう口にしたのを聞いたとき、雫には点と点が一本の線で結ばれたような感覚がした。「そうなんですか」と相槌を打ちつつ、雫は切実な表情をしている取手の心境を察する。
「はい。毎回、胸が締めつけられるような思いを味わっています。鑑別業務に携わってもう大分経つのに、こればっかりはなかなか慣れませんね」
「そうなんですか。毎回というのは大変ですね。非行に及んで鑑別所にやってきた少年には、虐待を受けている疑いがある子も、低くない割合でいますもんね」
「はい。少年院在院者の半数以上が、何らかの虐待を受けている疑いがあるというデータもありますからね。少年院へ送致される少年は必ず鑑別所を経由するので、必然的に鑑別所に送致される少年にも、そういった子が多くなりますし。まあそういった事態に慣れてしまうのも、それはそれで問題のあることなんですけどね」
「そうですね」と相槌を打ちながら、雫も今まで自分が関わってきた少年に思いを馳せる。寺戸のような可能性が高いケースでなくても、何らかの虐待を受けていた少年は、他にもいたかもしれない。
その彼ら彼女らに、自分は適切な関わり方ができていただろうか。そう考えると、胸を張って「できた」とは雫には言えなかった。
「ええ、本当はもっと長い期間をかけて少年に関われればいいんですけど、少年が鑑別所にいるのは多くの場合、少年審判が開かれるまでの、四週間ほどしかないですからね。寺戸さんの少年審判だって、もう来週の金曜日に予定されているんでしょう?」
雫は頷く。寺戸の少年審判が行われるまでには、あと一〇日もない。その間に雫たちは意見をまとめ、鑑別結果通知書として家庭裁判所に提出しなければならないのだ。
「僕はもう寺戸さんに関わることはできないので、あとは多くの部分を山谷さんや別所さんに託すしかありません。なので、山谷さん。どうか寺戸さんの事情をよりよく理解して、適切な対応・鑑別をしてくださいね。たった三、四週間の在所だとしても、鑑別結果通知書が少年審判の結果に関わる度合いは、決して無視できるものではありませんから」
分かっていたことでも改めて言われると、雫はプレッシャーを感じずにはいられない。
自分たちは、その少年の人生に関わる仕事をしている。だから、緊張感は常に持っておくべきだったが、それでも雫には少し息が詰まる心地がしてしまう。酔いも少しずつ醒めていくようだ。
雫の切羽詰まったような思いを感じ取ったのか、取手は「そんなこと言われても、どうしたらいいんだという顔ですね」と、雫の内心を一言一句違わず見抜いてくる。
「いえ、そういうことは……」といったん被りを振ったが、それでもそう言っている自分に説得力がないことは、雫も分かっていた。
「山谷さん。分かっていると思いますが、やはり寺戸さんのことをより深く理解してみようと努めることが、一番ではないでしょうか。警察の調書を読みなおしたり、別所さんをはじめとした関係する方々ともう一度話してみたり。それがより適切な鑑別へと繋がる、唯一の道ではないでしょうか」
「……そうですよね。やっぱりそれしかないですよね」
「不安そうですね。僕も無責任に『大丈夫ですよ』とは言えないんですけど、それでも山谷さんには、短いながらも鑑別所で勤務してきた経験がありますから。そのことは、少し自信を持ってもいいのではないでしょうか」
「ありがとうございます」と答え、雫は決意を新たにする。どのみち自分は、鑑別を行うしかないのだ。だったら、全力を尽くさなければ寺戸にも失礼だろう。
勢いのまま雫がビールジョッキに手をかけようとしたところで、個室のドアが開いて別所が戻ってくる。
三人になったことで会話は再び弾みだし、美味しい料理とともに、雫は和やかな時間を過ごせていた。