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第81話


 三回目の鑑別面接まで残された時間はあまり多くなかったが、そんななかでも雫はより寺戸のことを知ることに心を砕く。もう一度警察の調書に目を通してみたり、寺戸を担当している家裁調査官や付添人と再度電話で話してみたり。

 それは取手に言われたこともあったが、それ以上に寺戸に対して適切な鑑別を行いたいという思いが強かった。

 寺戸が今回の非行に及んだのは、今までの人生の積み重ねの結果なのかもしれない。だったら、二度と同じことを繰り返さないためにはどうしたらいいか。

 そのために雫は、昼夜を通して寺戸のことを考えた。

「では、寺戸さん。これから今回の面接を始めたいと思います。よろしくお願いします」

 迎えた三回目の鑑別面接の当日。雫がそう切り出すと、寺戸もかすかに頭を下げてくれていた。今までだったら無視されていたにも関わらず、寺戸の反応に雫も少し心が動く思いがする。

 毎日のように会っている別所の働きも大きいのか、寺戸は少しずつ雫たち職員にも、心を許しつつあるようだった。

「では、寺戸さん。ここに来てから二週間ほどが経ちますが、どうですか? ここでの生活には慣れてきましたか?」

 今までは反応がなかったから訊けなかったことも、寺戸が目が合わなくても、自分の方を向いてくれている今なら訊ける気が雫にはした。

 たとえ寺戸の返事が「……はい。少しずつですけど、慣れてきたかもしれないです」と小さな声によるものだったとしても、雫には構わない。まだ怯えているような表情は見せているものの、応えてくれただけで大きな進歩だ。

 だから、たとえそれ以上その話題は広がらなくても、雫は「そうですか。それは何よりです」と、穏やかな顔で頷くことができる。寺戸が勇気を出して面接に臨んでくれていることが、心強かった。

 それから雫は、二回目の鑑別面接の後に行った心理検査の結果について、寺戸に説明を試みた。少々引っ込み思案で自責的な傾向にあるという結果を、寺戸も否定せずに受け入れている。

 話していても自分の言葉が寺戸に伝わっている感覚があって、今までなかなか得られなかった感覚に、雫は面接をしながら、心がほんの少しだけ軽くなるようだった。

「では、寺戸さん。ここからはまた改めて、今回の事案についてお訊きしたいと思います。『また訊かれるのか』と思うかもしれませんが、それでも鑑別に、寺戸さんのためには必要なことですので、どうか正直に答えてください」

 雫が話題を変えると、寺戸も再び小さくだが頷いた。第一面接室の空気が引き締まっていく。

「寺戸さんは一〇月二四日に友人である松兼順二さんとともに、学校のクラスメイトである野村航さんに暴行を加えて、全治三週間の怪我を負わせた。改めてですが、これは間違いないですね?」

 雫も、寺戸に精神的な負荷をかけることを訊いていることは自覚している。寺戸も大変さを感じているだろう。

 でも、これは鑑別のためには避けて通れないことだ。

 寺戸も「はい、間違いありません」と頷いている。その言葉を続けるかどうか、雫は一瞬迷う。でも、ここでためらっていては鑑別は進まない。雫は、なるべくすぐに質問を重ねた。

「再度の確認になりますが、それは松兼さんと二人で行ったということでよろしいですね?」

 雫の質問にも、寺戸は「はい、そうです。僕と松兼くんの二人でやりました」と、シンプルに答えていた。でも、少し不思議そうにしているその口調からは、どうして雫がそう訊いたのかを少し探ろうとしていることが窺える。

 だけれど、雫はここで松兼が湯原との面接で話していることを言うわけにはいかない。いくら共犯と言えども、守秘義務は発生しているのだ。

「そうですね。私が言うまでもないことですが、暴力はどんな理由があったとしても、決してしてはいけないことですから。それは寺戸さんも、十分お分かりになっていることと思います」

「はい。ここに来てからの日々で、そのことがよりいっそう身に染みて分かりました。改めて僕は、なんてことをしてしまったんだろうと思います。あの、野村くんがそれからどうしているのかって、分かりますか?」

「そうですね……。怪我も治って今は無事に学校に通えていると、私は聞いています」

「それはよかったです。僕もここを出られるようになったら、すぐ野村くんに謝りに行きたい気持ちでいっぱいです。許してもらえるかどうかは分からないんですけど、それでも」

 そう言った寺戸に、「それができるかどうかは、現時点ではまだ分からない」とは雫には言えなかった。

 もし寺戸が少年審判の結果少年院送致になったら、鑑別所から直接少年院に送られることになる。そうなると野村に謝罪する機会は、また先のことになってしまう。

 それでも、野村に謝りたいと口にした寺戸を、雫は良い傾向だと感じた。間違いなく反省は深まってきている。

「では、寺戸さん。最後にもう一度だけ、寺戸さんの家庭環境について訊かせていただきますね」

 それからも事案について数回質問をしてから、雫はなるべく自然な調子で話題を変えた。

 でも、寺戸の顔はかすかに引きつっている。やはり進んで話したくないことなのだろう。それは面会での様子を見る限り、雫にも分かる。

 しかし、家庭環境が少年に与える影響は計り知れない。だから、適切な鑑別のために、雫は訊かざるを得なかった。「できる限り正直に答えてくださいね」と、念を押す。

 小さく頷く寺戸は、雫の質問に戦々恐々とさえしている様子だったけれど、それでも雫は続けた。

「市役所に連絡して、戸籍謄本を見せていただきました。寺戸さん、答えづらいとは思いますが、両親と血が繋がっていないというのは、本当のことではありませんね?」

 寺戸の心に一歩踏みこんでいる自覚は、雫にもあった。寺戸にも精神的な負荷がかかっていることだろう。答えるまでに数秒の間があったのが、その証拠だ。

 それでも、寺戸は少し俯きがけたまま「……はい、そうです」と、絞り出すように答えていた。「市役所に確認した」と言われて、もう嘘はつき通せないと思ったのかもしれない。

 それでも、雫は寺戸がようやく認めてくれたことに、ほんのわずかにでも胸をなでおろす。たとえそれが、寺戸にとっては苦しいことだったとしても。

「寺戸さん。私に寺戸さんを責めるつもりはありません。でも、どうして『両親とは血が繋がっていない』と言ったのですか? よかったら私に教えてくれませんか?」

 雫はさらに、もう一歩踏みこんでみる。寺戸のことを責めていないと、落ち着いた口調で。

 でも、寺戸はまた黙ってしまい、第一面接室には気まずい沈黙が流れる。雫は、ただじっと寺戸の返答を待った。

「……そんなの、見て分からなかったんですか?」

 先ほどよりも長い沈黙を経て、寺戸がようやく口を開く。その声色がどこか吐き捨てるようにさえ、雫には感じられる。

「それは面会でのことでしょうか?」と訊き返す。すると、寺戸は顔を上げた。目には、確かな怒りと悲しみが滲んでいる。

「そうですよ。山谷さんだって見たじゃないですか。僕の父親のあの態度を。声を荒らげて怒ったりして。山谷さんが立ち会っている前で、あんなことするなんてよっぽどですよ」

「それは私も感じました。面会という場において適切ではない態度だとは」

「そうですよね。僕の父親は、家でもあんな感じなんです。気に入らないことがあると、すぐに声を荒らげて怒ったりして。おかげで僕や母親は、いつもびくびくしながら暮らしてます」

 堰を切ったかのように饒舌になる寺戸に、普段隆志に対して抱いている感情を雫は垣間見る。恨みつらみと言ってもいいのかもしれない。

 隆志がいないからか、寺戸は思いの丈を吐き出していて、自分たちのことを少しは信頼してくれているのかもしれないと、雫は感じた。

 雫は「そうだったんですね」と相槌を打つだけで、寺戸の話を遮らなかった。寺戸が自ら、自分の家庭環境を話してくれるなら、それに越したことはない。

「はい。分かってますよ。山谷さんたちが、僕をそういう目で見ていたことは」

「どういうことでしょうか?」

「僕が父親から叩かれたり殴られたり、身体的な暴力を受けてると思ってたんでしょう。違いますか?」

「いえ、そんなことは……」

「分かってますよ。医師の先生に、僕の身体に残るあざを見られたんですから。それが山谷さんたちにも伝わってるんでしょう。当然のことですよね」

 そう言われると、雫は何の申し開きもできなくなる。ここで嘘を重ねても何の意味も成さないだろう。

 だから、雫は「確かにそういった側面も否定はできません」と、ある程度は認めるしかない。寺戸は口を尖らせたままだ。

「山谷さんたちの見立て通りですよ。確かに僕は、父親から身体的な暴力を受けていました。それも一回や二回だけではなく、幼い頃から何度にもわたって」

 そう言いながら、寺戸の心は傷ついていることを雫は察する。虐待被害をカミングアウトするのは、誰にとっても勇気が要る行為だ。

 でも、それを言ってくれているということは、話の流れはあっても、多少なりとは寺戸が心を開いてくれている証拠だ。自分たちに助けを求めている証だ。

 雫は「寺戸さん、話してくださってありがとうございます」と、優しく返事をする。

「自ら暴力の被害を訴えること、とても決心が要ることだったと思います。今回の寺戸さんの決心は、決して無駄にはしません。必ず鑑別に生かせていただきます」

 雫がそう言うと、寺戸も「お願いしますよ」といった目で、雫を見つめ返してきた。雫の決意は、より深まる。

 どんな処遇が下るのか、寺戸に断言することはできない。でも、どんな結果になろうと、寺戸のために全力を尽くそう。目を合わせていると、雫にはより強く思えた。


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