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第109話


 高速道路を降りると、出口の周辺には田園地帯が広がっていた。今は昨日の夜から降り始めた雪に覆われているが、あと半年もすれば青々とした水田の風景が広がるのだろう。

 そのままスマートフォンのナビアプリの指示に従って車を走らせると、バイパス道路に突入し、両脇には飲食店や服屋が立ち並ぶ。初めて通る道の雰囲気を新鮮に感じながら、雫は車を一路南に走らせた。

 林との二回目の鑑別面接を二日後に控えたこの日、雫は林が在籍している高校がある松本市までやってきていた。

 高速道路を降りてから、さらに車を走らせること二〇分ほど。林が在籍している高校は、市郊外の住宅地の近隣にあった。十分すぎるほど広い駐車場に公用車を停めると、雫は関係者通用口から校内に入った。

 授業中の静けさに覆われた校内を歩き、雫は職員室のそばにある応接室に通される。落ち着いた色調でまとめられた室内は、雫にかえって背筋を伸ばさせた。

 事務員が出してくれた温かいお茶を飲みながら、待つこと十数分。校舎には、二限目の終了を告げるチャイムが鳴り響く。

 昼休みに入った校内がにわかに騒がしくなり始めるなか、雫が待っていた人物はそれからさらに数分してから応接室にやってきた。眼鏡をかけた自分の母親くらいに見える女性と、背が高いわりに痩せている男性の登場に、雫は思わず立ち上がる。

 そして、そのまま立った状態で三人はまずは名刺交換をした。女性は二年生の学年主任を務めていて、名前を上條かみじょうといったのに対し、林の在籍する二年A組の担任を務める男性から受け取った名刺には、真下ましもと名前が書かれていた。

 上條に促されるように雫はソファに腰を下ろし、図ったようなタイミングで事務員が上條たちの分のお茶も運んでくる。

 事務員が応接室を後にしたのを見届けてから、雫はおもむろに口を開いた。

「上條先生、真下先生。本日はお忙しい中、わざわざお時間を作ってくださってありがとうございます」

「いえいえ、山谷さんもはるばる長野からありがとうございます。ここは車でないと来にくい場所にあるので、運転大変でしたでしょう。特にこんな雪が積もったような日は」

「確かにそうですけど、でも注意深く運転したおかげで大丈夫でした。あの、さっそくですが、今回の本題に入ってよろしいですか?」

「はい。林さんのことですよね。学校でのことならなんでも訊いてください。私たちもできる限り、お答えしますので」

「ありがとうございます」そう相槌を打ちながら、雫は再び気持ちを引き締める。そして、しっかりと二人の顔を見据えて尋ねた。

「では、まずは学業面から訊かせていただきます。林さんはどのように授業に取り組んでいましたか? 成績はいかほどで、得意科目や苦手科目などはあったのでしょうか?」

「そうですね。成績は決して良いとは言えないですけど、でも補習を受けるほどには悪くない成績でした。授業にも真面目に取り組むときもあるんですけど、でもスマートフォンを見たり、机に突っ伏して寝てしまうときも多くて。問題児とまではいかないんですけど、決して優等生とも言えない、そんな生徒ですね」

「真下先生の言う通り、正直なところ林さんは成績がずば抜けて良いわけではないので、得意科目や苦手科目というのもさほどないのですが、それでも日本史や公民といった社会科の成績は、他の科目と比較してですが良い傾向にありました。暗記の比重が高い科目に強みを発揮する一方、数学をはじめとした実践的な科目は苦手としている。文系タイプの生徒ですね」

 真下たちの話に相槌を打ちながら、雫は林に対して一般的な生徒だという印象を抱く。全員が全員授業や勉強に関心があるわけではないから、決して褒められるものでなくても、林の学業面は別段珍しくもないだろう。

 雫だって、学生の頃は勉強に乗り気でない時期もあったから、人のことは言えなかった。

「学業面については、大まかにですが分かりました。では、続いて学業面以外での、学校での過ごし方についてお尋ねします。林さんはクラスや学校でどのように過ごしていらっしゃいましたか? 友達等はどれほどいたのでしょうか?」

「友達はあくまで僕の印象ですが、他の生徒と比較しても多かったように思えます。クラスを問わず友達がいて、休み時間は特に仲のいい坂爪(さかづめ)くんや織本(おりもと)くんと、チャイムが鳴るまでずっと喋っていた。そんな印象がありますね」

「私も林さんの友人関係の広さは、学年主任の身ですが把握していました。下校するときも、別のクラスの生徒といる場面は何度も見られて。元来明るい性格であることも相まって、林さんの周囲には常に人がいる。少なくとも私が見る限りではそうでした」

「そうですか。友人もそれだけ多くいるとなると、勉強にはあまり気が向かなくても、前向きに学校には通えていたのでしょうか」

「はい。休み時間も笑顔でいることが多くて、学校に来ることを苦痛に思っている様子は、少なくとも僕の目からは見えませんでした。とはいえ、去年の一時期はそうではなかったんですけど」

「それは、どういうことでしょうか?」含みのある言い方をした真下に、雫は尋ねずにはいられない。

 真下と上條は一瞬顔を見合わせていたけれど、その間に目でやり取りをしたようで、真下が「いや、実はですね」と答える姿勢を見せる。

「林さん、去年までは野球部に所属していたんです。ピッチャーで、試合にも多く出場していました」

「そうだったんですか」と相槌を打ちながら、雫は少し驚いてしまう。先の初回面接で学校生活のことを訊いたとき、林は「部活には入っていない」と答えていた。

「はい。ですが、去年の秋に肩を負傷してしまって。日常生活には支障はなくとも、また野球をするのは難しいと、医師に言われてしまったようなんです」

「そんなことがあったんですか。それは大変ですね」

「はい。僕が見る限りでは、林さんは勉強をするよりも、部活をするために学校に来ている印象があったほど、部活に打ち込んでいたので、本人が感じたショックはとても大きいようでした。学校には毎日来てましたけど、授業態度も悪かったですし、友人ともあまり話さなくなって、塞ぎこんでいる様子でした」

「そうだったんですか。そのようなことがあったことは、恥ずかしながら今初めて知りました」

「まあ、本人からしてみれば、なかなか振り返りたくないことですからね。山谷さんが知らなかったのも無理はないと思います。友人たちの幾度にもわたる働きかけのおかげで、林さんの調子は少しずつ回復していましたけれど、好きな野球ができなくなって、空虚さを感じていた部分はもしかしたらあったのかもしれません」

「そうですか。分かりました。真下先生、貴重なお話をありがとうございます」真下が話した内容を簡単にメモに取ってから、雫は礼を述べた。林のバックボーンを一つ知られて、鑑別にも役立つかもしれないと思う。確かにそれまで打ち込んでいたものが急に奪われたら、誰でも空虚さは感じるだろう。

 しかし、それを埋めるために無理やり戸仲井との性交に走ったのだとしたら、雫はそれを容認できないと思ってしまう。他の方法で空虚さを紛らわせている人はいくらでもいるから、林が採った方法は間違っていると言いたくなる。それは直接的な言い方でなくても、まだ反省している様子を見せていない林に伝えるべきだろう。それが担当技官としての自分の仕事だと、雫は考えるようになっていた。


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