「では、林さん。ここからは林さんが起こした行為について、今どうお考えになっているのかを訊かせていただきます」
それからも雫は、林が鑑別所に入所してから読んでいる本について少し話そうとしたものの、林はただ淡々と訊かれたことに答えるだけだった。室内の空気は少しも穏やかなものにはならず、ピンと張り詰めたような雰囲気の中で、雫は事案のことを訊かざるを得ない。
だけれど、林は背筋を伸ばすどころか少し倦んでいるような表情さえ見せていたから、今どのように感じているのかは、雫にもそれとなく察せられた。
「林さんはこちらに不同意性交等の疑い、被害者である戸仲井さんの同意を得ないまま、一方的に性交を行ったとしてやってきているわけですが、どうでしょうか? ここに来てから間もなく一週間が経ちますが、自分がした行為について、今はどうお考えになっているでしょうか?」
「どうもこうもねぇよ。俺たちはちゃんとお互いに確認し合ったうえで、そうしたんだからよ。ここに入れられるいわれはまったくねぇんだよ。あいつが勝手に騒ぎ立ててるだけだろ。どうしてそれが分かってくれねぇんだよ」
林の主張は、初回面接の時と何も変わっていなかった。相変わらず否認を続けていて、雫は自分たちがこうして接していることの、効果の薄さを感じてしまう。鑑別所では反省する時間は多くあるが、それも林には功を奏していないようだ。
さて、どうしたものかと雫は一瞬考える。林の主張を盲目的に肯定するわけにはいかなかった。
「そうですか。林さんはそうお考えになっているんですね。ですが、戸仲井さんは同意もないまま、無理やり性交させられたと言っています。二人の供述が異なる以上、どちらもが本当だとは私には考えられにくいのですが」
「なんだよ。やっぱあんたも俺が嘘ついてるって考えてんのかよ。言っとくけど、嘘ついてんのは向こうの方だからな。俺たちのそれは、ちゃんと同意があるものだったんだよ」
林の態度は頑なだった。ここまで主張を変えないとなると、林が本当のことを言っているような気も雫にはしてくる。
だけれど、真綾から聞いた戸仲井の現状が、雫の頭の中の天秤を揺り戻した。真綾が言っていたことも、雫には嘘だとは思えなかった。
「林さん、これは林さんを担当している家庭裁判所の調査官から聞いたことですが、林さんがその行為をした日から、戸仲井さんは学校に通えていないそうなんです。外にもほとんど出られずに、ずっと家の中にいると。これは林さんの行為によって、心に傷を負ってしまったからではないでしょうか?」
「はぁ? 何だよ。そんなわけねぇだろ。どうせそれも嘘なんだろ? 俺を貶めようとする方便なんだろ? そんな嘘をついてまで俺を悪者にしたいなんて、そっちの方がよっぽど腹黒いじゃねぇかよ」
戸仲井の現状を伝えても、それをないがしろにする林に、雫は不快感を催してしまう。自分が法務技官の立場でなかったら、はらわたが煮えくりかえっているかもしれないとさえ思う。もし戸仲井側の供述が正しいとしたら、林の態度は唾棄したくなるものだ。
それでも、法務技官であるからには、雫は声を荒らげて林を叱るわけにはいかない。反省が見られない林を前にして、雫はあくまでも落ち着いた口調で、林がしたことの重大さを諭す必要があった。
「林さん。もし戸仲井さんの供述が正しかった場合、林さんには自分がしたこととしっかり向き合って、反省する必要があるんですよ」
「だから、俺は無理やり襲ったわけじゃねぇって、何度も言ってんだろ。いつになったら分かってくれんだよ」
「確かに今の時点では、林さんと戸仲井さん、どちらの供述が事実なのかはまだ断定できません。それでも、これは一般論として聞いていただきたいです。林さん。確かに林さんがしたことは、一時間にも満たないごく短い間のことだったのかもしれません。それでも、戸仲井さんはそのわずかな時間で、人生を悪い方向に変えられてしまったんですよ」
「何だよ、人生って。大げさだな」
「いえ、決して大げさではありません。戸仲井さんは今も学校に通えていない。家の外に出られていない。これがなぜだか、林さんには分かりますか?」
「さあな。もしそれが本当だったとしても、しょせん一時的なことだろ」
「いいえ、一時的なことではありません。戸仲井さんが家から出られなくなってしまったのは、林さんに恐怖心を植えつけられてしまったからです。人の目に触れると、林さんにされたことを思い出してしまう。戸仲井さんにとってもはや外や学校は、安全な空間ではなくなってしまったんです」
そう諭す雫にも、林は少しうんざりするかのような表情を浮かべていた。説教は聞きたくないと思っているのが、簡単に分かるほどだ。
それでも、雫は言葉を止めるわけにはいかない。たとえ今は届かなくても、いつか自分が言うことが分かる日が来ることを願って、語りかける。
「それは林さんにとっては、たった数十分のことだったのかもしれません。少年審判で保護観察や少年院送致が言い渡されれば、その期間を終えたことで、社会的には矯正教育が済んだと見なされるでしょう。ですが、被害を受けた戸仲井さんの苦しみは一生続くんです。もしかしたら、いつか再び学校に行けるようになる日が来るかもしれません。でも、それは戸仲井さんの傷が癒えたことを、必ずしも意味しないんです。ふとした瞬間に思い出してしまったり、毎年被害を受けた時期が近づくと辛くなってしまったり。そういった苦しみが、一生涯続くんです。被害に終わりはなく、林さんから被害を受ける前の人生にはもう戻ることはできない。林さんは、戸仲井さんの心に一生残る傷を刻んでしまったんです。分かりますか?」
「一般論なんじゃねぇのかよ。俺が悪いみたいに決めつけて。そんなに俺を悪者にしてぇのかよ」
「いえ、これは林さんたちの場合だけではありません。他にも同じように苦しんでいる方は大勢いらっしゃるんです。図書室には性被害を受けた方の手記もありますから、もしよろしければ読んでみるのはいかがでしょうか?」
「嫌だよ。だって、俺たちの場合とは違うんだから。何が楽しくて、そんなもん読まなきゃなんねぇんだよ」
「楽しい楽しくないではありません。今の林さんにとって必要と思われることなので、こうして勧めているのですが」
「強制じゃねぇか。何回でも言うけど、俺は悪くねぇからな。あいつだってすることに頷いてくれたんだから」
雫が力を込めて諭してみても、林は一向に反省する様子を見せず、自分の言葉が届いている実感を雫は得られなかった。
林には林にとっての現実が確固としてあるようで、それは雫がどれほど言葉をかけても揺らいではいない。自分が考えたいように考えている。
でも、いくらそう思っても、雫はそれを指摘できなかった。林が言っていることの方が正しい可能性だって、まだあるのだ。
そう考えると、今の自分は少し決めつけすぎていたという気にも雫はなってくる。フラットな視線を欠いていたことに、肩身が狭くなる思いさえした。
「そうですね。林さんのその主張も含めて、私たちとしても、これからさらに検討を重ねなければと思います。それでは、林さん。この話題はひとまずここまでにしておいて、次は林さんの学校生活や友人関係について訊いてもいいですか?」
雫がまだ自分を疑っていることは、林にも分かったのだろう。「ああ」という投げやりな返事から、不服に思っていることが滲み出ている。
それでも、雫は険しくなっていた表情を気持ち穏やかにして、林に質問を続けた。周囲に特に問題のある友人はおらず、学校にも毎日通っていたということが林から訊き出されて、上條たちから聞いた通りだと雫は感じる。
怪我をして野球部を辞めたことも問いかけてみると、林は明らかに嫌そうな顔をして、それだけで事実であることが雫には分かる。
でも、林は苛立っているように「そうだよ」と答えただけで、その出来事が今の林に与えた影響や今回の事案との関連性を、雫は訊き出せなかった。
とはいえ、林にとって良くない出来事なのは間違いないようで、「それは大変でしたね」という同情が林の表面を滑っていったことからも、そのことが雫には感じられていた。