それからも、雫たちは一時間以上をコーヒーチェーンで過ごした。三人の近況、最近聴いている音楽や見ている動画、はたまたどうでもいいと思える世間話を和やかな雰囲気のもと話す。二人と話していると、雫も過去にBBSの活動で関わっていた頃を思い出して、しみじみと感じ入るものがある。
それでも、人の入れ替わりも多い店内は何時間もいられるような雰囲気ではなくて、ドリンクを飲み終わったタイミングで雫たちも席を立っていた。コーヒーチェーンを出てからの予定を雫は立てていなくて、それは二人も同様だったのか、三人は自然と解散する流れになる。
駅まで一緒に向かい、「また会おうね」と声をかけてから、雫は一人改札をくぐる。振り返って見た二人の顔は、今日という日に充足感を覚えているようで、雫の心は後ろ髪を引かれながらも、くすぐられるようだった。
在来線と新幹線を乗り継いで雫が長野駅に帰ってきた頃には、日もすっかり沈んでいて、夕食にちょうどいい頃合いとなっていた。駅にも近いラーメン屋で夕食を済ませた雫は、宿舎に戻るとベッドに横になる。橘田や世良と遊んだり話しているのは楽しかったけれど、それでもボウリングを三ゲーム行ったことに加えて、新幹線等による移動の疲れは確かに感じていた。
軽く目を瞑りながら、今日の出来事を反芻する。思い返してみても、橘田や世良といた時間は全ての瞬間が心地よく、明日からまた仕事に向かうエネルギーを、雫は受け取っていた。
そのまま暖房も効き始めた部屋のなかで身体を休めてから、雫はひとまずシャワーを浴びようと、ベッドから起き上がる。
そのときだった。雫のスマートフォンが振動したのは。
手に取って見てみると、待ち受け画面は真綾からのラインが来たことを知らせている。〝雫、お疲れ〟というシンプルなメッセージに、雫もトーク画面を開いて返信を打ちこんだ。
〝いえいえ、私今日は休みでしたから。真綾さんの方こそお疲れ様です。今仕事終わったところですか?〟
〝うん。今から帰るとこ〟
〝そうですか。こんな遅くまでお仕事お疲れ様です〟
〝いやいや、今日は全然早い方だよ。それより雫は今日どうだったの? 東京に行って、前にBBSで関わっていた子に会ってきたんでしょ?〟
〝はい。一緒にボーリングしたり、コーヒーチェーンでお茶したりしました。久しぶりに会って話せて楽しかったです〟
〝そう。私たちだけじゃなくて、誰にとっても息抜きは必要だからね。雫がたった一日とはいえ、思いっきり羽を伸ばせたようでよかったよ〟
真綾はとりとめのない雑談からやり取りを始めていたけれど、それでも雫の気持ちはにわかに逸っていた。〝ありがとうございます〟と返信を打ちながら、頭のなかは別の事柄で占められる。
いてもたってもいられないような感覚がして、雫は真綾が次のメッセージを送ってくる前に、立て続けにラインを送っていた。
〝ところで、どうでしたか? 真綾さん。今日の林さんとの面談は〟
雫が橘田や世良とボウリングに興じている間、真綾は鑑別所で世良との面談を行っていた。二人の間でどんな話がなされているのか、雫はボウリングの間も度々意識していた。
真綾がラインを送ってきたのも雑談をするよりも、その結果を伝えるためだろう。真綾が返信を送ってくるわずかな間でも、雫は息を呑むような心地がしていた。
〝うん。そのことなんだけど、雫は
真綾の返信がどの想像とも違っていて、雫は一瞬呆気にとられる。
正確に言えば、その名前を雫は大学時代に、男性の友人から聞いたことがある。だけれど、〝知ってます〟と答えることは、少し気が引けた。知っていると認めるのは、少し恥ずかしいような。真綾が挙げたのは、そんな人物だった。
〝いえ、初めて聞きました。誰なんですか?〟
〝そっか。雫も聞いたことないか。いや、私も初耳だったんだけど、林さんとの面談でその名前が出てね。誰なのか訊いたら、どうやらセクシー女優の人みたいなんだよね〟
真綾がラインをしてきた「藍沢ひかり」なる人物の実像に、雫は「やはりか」と思う。実際に彼女が出演しているビデオを見たことはないが、それでもその名前は、大学時代に何気ない雑談の中で耳にしていた。
〝そうなんですか。でも、どうしてそういう話になったんですか?〟
〝それは今回のことに至った理由や背景について思い当たることがないか、林さんに訊いてみたの。そうしたら、昔見たそういうビデオで、その藍沢さんって女優さんが男の人に襲われてるシーンがあったみたいで。その藍沢さんが最初は嫌がりながらも、気持ちよさそうに喜んでいる様子が印象に残ってたって話してくれたんだ〟
真綾を経由して目にした林の話に、雫は少し驚いてしまう。そういったビデオを見ること自体は、いくら子供とはいえ男性だからあるかもしれないけれど、それでもその話を家裁調査官との面談の場で容易くするだろうか。
林は性に対して奔放なのかもしれないと、雫は改めて思う。加えて先週の両親との面会の様子も、雫には同時に思い起こされた。
〝いや、でもその藍沢さんがそういった態度を見せるのは当然じゃないですか。だって、それが仕事なんですし。でも、それは演技で現実じゃないですよ〟
〝うん。それは私も言った。それは林さんも薄々分かってたみたいで。でも、子供の頃から何度も見てるから、その藍沢さんの様子が頭に焼きついちゃってたみたいで。今回のときも、ふとそれが頭をよぎったって言ってたんだ〟
〝ちょっと待ってください。子供の頃からって、林さんはまだ一七歳ですよね。いったいいつ初めて見たんですか?〟
〝九歳のときだって言ってた。何でも父親が所持していたそういうビデオが、簡単に見つけられる場所にあったみたいで。両親がいない時間帯に、そういったビデオを何本も見ていたんだって〟
〝それって親の責任じゃないですか。普通そういったビデオはたとえ持っていたとしても、決して子供には見つけらない場所に隠しておくべきなのに〟
〝それは私も思った。もし見つけたら、興味本位で見ちゃう場合もあり得るんだから、まず触れさせないのが重要だって。そういった環境が、林さんの性に対する認識に影響を与えていたとしても、何もおかしくはないと思う”
〝そうですよね。これは真綾さんにも伝えたことなんですけど、林さんの両親は「同意を得て行為に及んだ」と言った林さんを責めてはいなくて。「同意があるならそういったことはしてもいい」と言わんばかりでした〟
〝うん。それは私も聞いたよ。いや別に同意を得ての行為だったら、私もそういうこともあるかなと思うんだけど、でもそれは他人だから思うことで。実の息子がそういうことをしてたら、もっと色々と感じてもいいはずなのにね〟
〝はい。あまり人の家庭に口出しするのはよくないかもしれないんですけど、それでも林さんの家はちょっと性に関して奔放すぎると、私は感じます。それが今回の事案に与えた影響も、無視できないのではないでしょうか〟
〝そうだね。なかなか訊きづらいことではあるんだけど、私はまだ林さんの両親と面談をする機会があるから、それとなく訊いてみるよ。だから、雫もそのことを考慮しながら林さんに接していってね〟
〝分かりました。真綾さん、ありがとうございます。面談の内容を伝えてくれて〟
〝いやいや、私は仕事として当然のことをしてるまでだよ〟
〝いえ、でも凄いためになりました。次の鑑別面接にも参考になりました〟
〝そっか。ならよかった。じゃあ、雫。そろそろいったん終わりにしていい?〟
〝はい。真綾さん、改めてお疲れ様でした〟
〝ありがと。じゃあ、おやすみ。また今度ね〟
〝はい。おやすみなさい〟
雫が送ったそのメッセージに、真綾は返信をしていなかったから、雫もやりとりが終わったことを察する。スマートフォンをベッドに置いて、一つ息を吐く。
真綾から伝えられた情報はとても貴重なもので、これを次の鑑別面接に生かさなければ、知った意味がないだろう。そのための方策は雫にはまだ見えていなかったが、それでも林の背景をより深く知る手がかりが得られたことに、雫の気持ちは一瞬にして引き締まるようだった。