「それでは、これから今回の面接を始めさせていただきます。林さん、よろしくお願いします」
雫が小さく頭を下げると、林も返事はしなかったものの、ほんのわずかに頷いていた。それは今まで不満げな様子を見せていた林が、初めて見せる態度だった。
今日は背もたれにもよりかかってはいないし、思えば居室で「面接をしましょう」と声をかけたときも、今までにないほど素直に応じてくれた。
もしかしたら鑑別所で過ごしたり、雫や平賀たちと接しているうちに変化が訪れているのかもしれない。
「では、林さん。ここからは三度、今回の林さんがした行為について訊かせていただきます。繰り返し訊かれて飽き飽きしているかもしれませんが、それでも正直に答えてくださいね」
本題に入る前に、鑑別所で過ごしてみて何か感じることはあるか、両親と面会をしてみてどう感じたかと雫が訊いてみても、林はぶっきらぼうな態度を取ることなく、率直に答えていた。
言葉の節々からまだ不満は少し顔を覗かせていたものの、それでも過去二回の面接よりもしっかりとしたコミュニケーションを取れていて、雫もいくらか事案のことを尋ねやすい。
林も「はい」と頷いていて、その相槌自体が今までの面接では見られなかったものだった。
「では、お訊きします。林さんは戸仲井さんへの不同意性交等罪の疑いで逮捕され、鑑別所に入所してきました。ですが、林さん自身は同意のうえでの行為だと考えている。ここまではよろしいですか?」
「……分かりません」
その林の返事が、雫には少し意外に感じられた。何が起こったのかを知っているのは、林と戸仲井だけだというのに。
雫は疑問に思う気持ちを、なるべく穏やかな声に乗せる。
「分からないとは、どういったことでしょうか?」
「あの、そういった行為をしたのは本当なんですけど、でもそこに同意があったのかどうか、俺にはよく分からなくなってきたんです」
林の口調は絞り出すかのようで、本人さえも少し混乱していることが雫には窺える。
それでも今まで否認一辺倒だった態度に、変化が見られているのは間違いない。雫は真相を知りたいという気持ちを抑えて、平淡な口調を心がける。
「そうですか。ちなみにどうして分からなくなってきてしまったのでしょうか?」
「いえ、俺は同意のうえでしたと思ってたんですけど、でも戸仲井、戸仲井さんが学校にも行けていないことを聞いて、もしかしたら俺は戸仲井さんを傷つけてしまったのかもしれないって、思うようになってきたんです」
林の口調は重く、葛藤のただなかにいるようだった。前回の面接でそのことを伝えたときは、「どうせ嘘だろ」と意にも介していなかったのだが、それでも鑑別所での生活が、自分がしたことに向き合う時間を作らせたのだろう。
「そうですね。今回林さんがしたことは、戸仲井さんにも決定的な影響を与えてしまいましたから。そのことをよく理解していただきたいです」
「はい。もし俺がしたことで戸仲井さんが傷ついたのなら、今は謝りたい気持ちさえあります。『もし傷ついたのなら、ごめんなさい』と、面と向かって言いたいくらいです」
林はまだ自分がしたことを完全に認められてはいなかったが、それでもその言葉は反省していなければ出てこないものだ。
もちろん被害者感情があるから、林と戸仲井を対面させるわけにはいかないが、「謝りたい」という言葉が口から出てきたことに、林も今回の事案を重く受け止め始めたことが雫には感じられる。少しずつ、正しく物事を見ることができているかのようだ。
「そうですか。実際にそうすることはなかなか難しいものがありますが、それでもそう思うことは悪くないことだと、私は思いますよ」
「はい。まだ分からないんですけど、もしかしたら今回のことは俺に原因があるんじゃないかって、少しずつ思い始めてきていて。俺はしてはいけないことをしてしまったんですかね?」
「それはまだ私たちにも完全には分かりませんが、でもどうして林さんは今回のような行為に及んでしまったのでしょうか? 責めているわけではないのですが、もし思い当たる節があったら教えていただきたいなと」
「それは一緒にゲームをして遊んでいるうちに、そういった気分になってしまったとしか、言いようがないといいますか……。今まではそんなことはなかったのに、なぜあのときだけそうなってしまったのか、自分でも分からないです」
「林さん。それはもしかして、野球部を退部したことが関係しているのでしょうか? 打ち込めるものがなくなったことで、そういった欲求を持て余してしまったということはないのでしょうか?」
「それはあるかもしれません。今思えば野球をすることで、そういった欲求を紛らわせていたのかもしれないです」
そう話しながら、雫はそのことが問題の本質ではない気もしていた。
それを切り出すのは少し思い切りがいったが、それでも今回が最後となる面接で訊かないという選択肢は、雫にはなかった。
「林さん。これは少し訊きづらいことなのですが、先日家庭裁判所の調査官である毛利と面談をしましたよね?」
「はい」と林は頷く。雫は思い切って言葉を続けた。
「そのときの内容を私は毛利から伝えられたのですが、その面談で林さんがそういったビデオ、言ってしまえば卑猥な内容のものを、小学生の頃から見ていたという話が出たそうなのですが、これは本当でしょうか?」
「……はい、本当です」
林は、意外なほどあっさりと認めていた。もう真綾に話したことを、今さらごまかすことはできないと思ったのかもしれない。
少し驚きつつも、雫はさらに確認を続けてみる。
「毛利から聞いた話では、林さんは小学生の頃父親が所持していたビデオを見つけて、それを視聴していたということですが、それはどういった経緯だったのでしょうか?」
「あの、きっかけは本当に偶然だったんです。アニメのDVDを探していたときに、パッケージが無地のビデオを見つけてしまって。取り出してみたらそういったビデオなのはすぐに分かって。興味本位で再生してみたら、想像していた以上の内容のものが、そこには映されていたんです」
「そうですか。話を聞く限りでは、それを見つけてしまった林さんよりも、そんなものを子供にでも見つけられる場所に置いておいた父親の方に責があるように、私には思われますが」
「あの、面会のときにも分かったと思うんですけど、ウチの親、性に対しては大らかなところがありまして。俺がそういったビデオを見ているのが一回父親にバレたんですけど、それでも父親は怒るどころかむしろ嬉しそうで。まるで『男ならこういうのを見て当然』と言わんばかりでした」
「それは、あまり適切な態度ではないですね。そういったビデオは、戸仲井さんの年齢ならまだ見てはいけないはずで。親からすれば叱るとまではいかなくても、『見てはいけない』とたしなめてもいいはずなのに」
「いえ。ウチの親は、いずれそういうことも経験するんだから、早いうちから勉強しとけって態度でした。食事の席でも性的な話題は多かったですし、さすがに最近はないんですけど、昔は両親がそういった行為をしていることを、見させられたこともあります」
「少し待ってください。それはいつ頃のことですか?」
「確か幼稚園の頃から小学校低学年の頃まで、何回か続いていたと思います。ウチの家庭ではそれが普通だったので、保健体育の授業とかで、みんなそういったことはあまりオープンにしたがらないことを知って、驚いた覚えがあります」
林の話を聞いて、雫は内心で頭を抱えそうになってしまう。両親の教育方針が、林の今に至るまでの認識に与えた影響は、無視できないほど大きいだろう。
そう思うと、雫は林に同情しそうにもなってしまう。幼少期の林が受けたのは、紛れもない性的虐待だ。児童に直接加害行為をするだけでなく、児童の前で性交を見せることや度を超した性的な話をすることも、性的虐待の範疇に含まれるのだ。
もし林の言っていることが本当だとしたら、今回の事案に至った原因に、両親の存在も影響しているだろう。林もある側面では、被害者なのかもしれないのだ。
「そうですね。そういった性の話は公の場ではなかなかされず、ある程度お互いのことを知ってからするのが、一般的ですから。今の林さんに、両親のそういった行為が与えた影響は、確かにあるように思われます」
「……あの、ウチの親、おかしいんでしょうか?」
「そうですね……。早いうちから性の知識を身につけておいた方がいいという思いは理解できますが、それでもその方法は、あまり適切だとは言えないかもしれないですね。子供が過度な刺激に晒されないように保護するのも、養育者である親の務めですから」
教育方針はそれぞれの家庭で異なっていて、そこに他人が口を出すべきではない。でも、そんな良識を林の両親の場合は超えているように感じられたから、雫も正しいと認めるわけにはいかなかった。両親が間違っていると言われて、林が傷つくかもしれないとしても、だ。
それでも、「そうですか」と相槌を打つ林は、どこか腑に落ちたような表情をしていた。
もしかしたら両親の教育方針が適切ではないことには、とうに気づいていたのかもしれない。
だけれど、簡単に両親のもとから離れることはできなかったのだろう。
雫は林が生きてきた環境について、束の間思いを馳せた。経済的には満たされていたとしても、精神面は違ったのかもしれない。
自分にできることは適切な鑑別をして、少しでも林の助けになることだ。林の話を聞きながら、雫はその思いを新たにしていた。