林の入所先は、その日のうちに安曇野にある第一種少年院に決まり、諸々の手続きも一日で完了した。だから、少年審判が終わってから二日後には、林は退所日を迎えていた。
とはいえ、雫はその日も林に接することはできなかった。私物をいったん返却して、少年院まで送っていくことは、担当教官である平賀の役目だったからだ。
だから、雫は平賀が職員室から出ていって、林と接しているところを想像すると、どこか切なく感じてしまう。最後の言葉さえかけられないことが、寂しくも感じられてしまう。外から聞こえる車のエンジン音に、後ろ髪を引かれる思いがする。
林の鑑別は大変なことも多かったが、それでも雫にはたとえわずかでも、林と繋がれた感覚があった。
平賀が林を乗せて少年院に出発していくと、雫には担当している少年相談の業務が訪れた。対象となる少年と面談をしているときは、当然そのことで頭はいっぱいだったものの、それでも面談が終わって職員室に戻ると、林のことが頭をよぎってしまう。面談結果をパソコンでまとめているときにも、林はもう少年院に着いた頃だろうかと思ってしまう。
それを完全に意識しないことは雫には難しく、ふとした瞬間に業務をする手が止まってしまいそうなほどだった。
林を少年院に送り届けた平賀が鑑別所に戻ってきたのは、雫が昼食休憩も終えて、午後の業務に取り組んでいた頃だった。職員室に戻ってきた平賀は席に着くと、小さく息を吐いている。
「平賀さん、運転お疲れ様でした」
「ありがとうございます。でも、あの少年院には僕も何度も行っているので、運転ももう慣れっこですよ」
「そうですか。林さんはどうでしたか?」
「はい。ちゃんと素直に僕たちの言うことを聞いてくれて。おかげさまでスムーズに少年院に身柄を引き渡すことができました」
平賀の返答を聞いて、雫も内心で息を吐く。何のトラブルもなく林が少年院に入院できたことは、それだけで雫には安堵できることだった。
「そうですか。それはよかったです」
「はい。それと、山谷さん。車の中で、僕は林さんからの伝言を預かったのですが」
「伝言、ですか?」
「はい。『面接などで親身に、ときに厳しく接してくれて本当にありがたかった。自分が今思えば筋の通っていない主張をしても、それを頭ごなしに否定せずに諭してくれて、おかげで自分がしたことを振り返られるようになった。態度が良いとは言えなかった自分にも真摯に向き合ってくれて、本当に感謝している。だから、それに応えられるように今回の機会をチャンスと捉えて、二度と繰り返さないようにしっかりと励んでいきたい』とのことでした」
平賀が口にした伝言は、直接林から聞いたものではなかったけれど、それでも雫の胸には確かに届いた。
思えば鑑別所に入所してきたときには、その反抗的な態度に先が思いやられたが、それでも鑑別所での生活は林の態度や考え方を変えるのに、十分な役割を果たしたらしい。
そこに自分も面接や心理検査等で寄与できたことが、雫には誇らしく感じられた。胸の奥底から込みあげてくるものさえある。
「平賀さん、ありがとうございます。林さんがそう思っていると知られて良かったです」
「はい。これから林さんがどのような人生を歩むかは分かりませんが、二度と同じことを繰り返さないような生き方をしてほしいですね」
「はい」と雫も頷く。林の人生はこれからも続く。そこに自分たちの鑑別や少年院での矯正教育がプラスの作用をもたらすことを、雫は願ってやまなかった。
林の少年審判が行われた、同じ二月のある日。湯原は長野駅の前を歩いていた。少しずつ明るい時間は長くなりつつあるものの、それでももう太陽は沈んで、空は徐々に藍色を濃くしている。
街灯や建物の明かりも目立ち始めるなか、湯原は駅前のスクランブル交差点で信号が青に変わるのを待っていた。何人かの人と一緒に、スマートフォンを見ることもなく、歩行者信号の目盛りを見つめ続ける。
すると、湯原は道路の向こうに見知った顔を見つけた。向こうはスマートフォンに目を落としていて気づいていないようだが、それが誰か湯原には何年も会っていなくても、はっきりと分かる。
歩行者信号は青に変わり、湯原たちは歩きだす。その相手とすれ違うときも何人かが間にいた。
それでも、湯原は交差点を渡り切ると不意に声をかけられた。
「なあ、お前湯原だよな。俺だよ、俺。覚えてるか?」
相手はわざわざ交差点を戻ってきてまで、湯原に声をかけていた。半ば確信しているかの様子に、湯原としても無視をするわけにはいかない。
「ああ」と頷いて、湯原は相手の名前を呼んだ。湯原に声をかけてきたのは、中学時代の同級生である
「いや、本当久しぶりだよな。最後に会ったのが中学のときだから、もう二〇年以上ぶりになるか」
中ジョッキのビールに口をつけてから、吉永は感慨深さを含んだ声で、再び会話を切り出していた。混雑している店内に、人の話し声が盛んに行き交っている。
湯原は少し話してから「せっかくだし、よかったら吞もうぜ」と誘われて、駅からもほど近い居酒屋にやってきていた。
「いや、高校生になってからも俺たち一回会ってるだろ」
「ああ、そうだったな。でも、この年になると、それももう誤差の範囲じゃんか。いずれにせよ二〇年以上会ってなかったのは変わらないわけだし」
早くも調子よく言う吉永に、湯原も「そうだな」と頷く。いずれにせよ、吉永と長い間疎遠になっていた事実は変わらない。
「それでさ、お前今何やってんだよ?」
「ああ、今は公務員やってるよ」
「そっか。公務員か。じゃあ、それって市役所とか県庁に勤務してるってことか?」
「いや、そういうわけじゃねぇんだけど」
「じゃあ、どういうわけなんだよ」
吉永にそう訊かれて、湯原は一瞬周囲を確認した。誰もが自分たちの食事や会話に忙しいようで、湯原たちを気にしている者は、誰もいなさそうだった。
「あのさ、よく知らねぇと思うけど、今は少年鑑別所ってところで、法務技官をしてるんだ」
「ごめん、本当に知らねぇ。それってどういう仕事なんだよ」
「まあ、大雑把に言えば非行に及んだ少年に面接をしたり、心理検査を行ったりして、その少年にどんな処遇が適切なのかを考えていく仕事だな。あとは少年相談っていって、地域からの相談も受けつけたりしてる」
「なるほどな。まぁいいんじゃねぇの」簡単に返事をした吉永は、それ以上湯原の仕事を探ってくることはなかった。
吉永も、湯原の過去は知っている。もしかしたら、それと今の仕事の結びつきを感じているのかもしれない。
それでも、吉永がそれを言葉にしなかったことは、配慮を感じて湯原にはありがたかった。
「ところでさ、去年ウチの中学で同窓会があったんだけどさ」
吉永がソフトウェア会社でエンジニアとして働いていることなど、それからもいくつかの話題を経たのちに、吉永はがらりと話題を変えていた。既に二人とも中ジョッキは二杯目に突入しており、テーブルにもサラダや焼き鳥などいくつかの料理が並んでいる。
それでも、その話題に湯原は少し構えてしまう。
「ああ、知ってるよ。俺んとこにも案内のはがきが来てたからな」
「だよな。でも、お前同窓会来なかっただろ。なんで来なかったんだよ」
吉永が発した疑問は湯原が想像した通りで、でもそれは適切な答えを返せることを意味していなかった。
少し言葉に詰まってしまう湯原に、吉永は軽く訝しむような目を向けている。湯原にとっては、進んで口にしたいことではないのに。
「そりゃ、だって俺が行ったら悪いだろ。空気がなんか変な感じになっちゃうだろ」
「そうか? 俺は別にそんなこと気にしないけどな」
「お前が気にしなくても、他の奴が気にするんだよ。だって、俺がしたことは多分全員に知られてるだろうし」
「確かに、それは否めねぇかもな」と相槌を打った吉永に、湯原は心を抉られる思いがした。
ああいったことをしたからには、一生そのことを背負って生きていかなければならない。
それは分かっていても、でも喉元を絞められるような感覚を、湯原は歓迎したくはない。報道で湯原の名前は出されていなかったが、それでもその重大性から、人から人へ湯原がしたことは伝わっているのだろう。
それは時間が経っても、なかったことには決してならない。
「ああ、だから俺は同窓会なんて最初から行かないって決めてたんだ。俺が行っても、誰も良い思いはしないからな」
「なあ、湯原。そんな悲しいこと言うなよ。確かにお前がああいったことをしたことを気にする奴はいるだろうし、俺も完全に気にしないのはちょっと難しいんだけど、でもせっかくこうして久しぶりに会ったんだからさ、また今度も会って呑もうぜ」
「……いいのかよ」
「ああ、いいよ。お前、ラインはやってるよな? よかったら交換しようぜ」
そう言ってスマートフォンを手に取った吉永の申し出を断るのは、無礼すぎる気がして、湯原もスマートフォンを取り出す。QRコードを使ってラインを交換する。
一番上に表示された吉永の名前に、湯原の心はほだされていっていた。