校舎に鳴り響くチャイムを、雫は応接室で座って聴く。昼休みを告げるチャイムなのだろう。校内がにわかに騒がしくなり始めるのが、教室がある東棟とは向かい側にある西棟にいても雫には分かった。
モダンさを感じるような明るい茶色でまとめられた室内で、雫は入り口のドアが開けられるのを待つ。気持ちが逸って、何度も出されたお茶に手を伸ばしたくなる。
硯が母親である茉奈と面会をした翌日、雫は長野市内の硯が通っている高校にやってきていた。
昼休みを告げるチャイムが鳴ってから十分ほど。ドアを二回ノックする音が聞こえて、雫は立ちあがる。
「失礼します」と入ってきたのは、二人の男性だった。一人はすらりと背が高く、雫には二〇代から三〇代に見えるのに対して、もう一人の方は眼鏡をかけていて、頭には白髪も覗いている。きっと年下の方が硯の担任で、年上の方が二年生の学年主任なのだろう。二人を目にした瞬間に、雫は簡単に当たりをつける。
テーブルを挟んで雫の前に立った二人は、すぐさま名刺を取り出していて、雫と名刺交換をする。年下の方は硯の担任で、名前を
「本日はわざわざありがとうございます」「いえ、こちらこそ本日はよろしくお願いします」そう簡単に挨拶を交わしてから、雫たちはソファに腰を下ろす。
そして、机に置いていた手帳を手に取ると、雫は「では、さっそくですが、硯さんについて色々お話を伺わせていただきます」と二人に呼びかけた。
二人が頷いたことを確認して、雫は最初の質問を投げかける。
「では、まず最初に硯さんの学業面についてお聞かせください。硯さんの成績、得意科目や苦手科目、授業態度はいかがだったのでしょうか?」
「そうですね。硯さんは入試でもトップクラスの成績を収めて入学してきたこともあり、成績は学年でもかなり上位に入るほど優秀でした。どの教科も軒並み点数が高くて、特に英語では学年一位の成績を収めていましたね。目立った苦手科目もなく、授業も真剣に受けていて、こういう言い方はあまりよくないのかもしれませんが、優等生という言葉が当てはまるような、そんな生徒でした」
牛丸の答えに、雫は意外性をあまり感じなかった。面会の様子からも、硯が懸命に勉強に取り組んでいたのは察せられたからだ。
たとえ、親の影響が大きかったとしても、硯が勉強に時間を割いていたこと自体は間違いないだろう。
「そうですか。硯さんは勉強が得意だったんですね」
「はい。ですが、二年生になってからは少しずつ成績も低下していて。それでも、学年上位はキープしていたのですが、何かあったのかもしれないとは私たちも感じていました。まさか、それがこのようなことだとは思いもしませんでしたけれど」
三角の淡々とした語り口からも、硯が補導されたことにショックを受けていることが、雫には感じられた。成績も良かったからには、硯は教師たちからも良い印象を持たれていたのだろう。現実との落差に戸惑うのも仕方ないように、雫には思える。
「そうなんですか。もしかしたら、硯さんは勉強ばかりの日々に、少しストレスのようなものを抱えていたのかもしれないですね」
「はい。その可能性は否定できないと思います。硯さんは部活動にも所属していなくて。一度その理由を聞いてみたのですが、親から勉強をしていれば部活動に割く時間はないと言われたそうで。それでどの部活動にも入っていないということでした」
「そうですか。硯さんのご両親は好意的に捉えるならば、とても教育熱心な方だったんですね」
「はい。それは良いことではあるのですが、でも少し度を超していると感じられるような瞬間もありまして。本校では毎年一〇月に文化祭を開催しているのですが、その活動に硯さんを参加させないでほしいとおっしゃったことも、一年生のときにはありました」
三角が口にした内容に、雫は耳を疑ってしまいそうになる。
本人が望むにせよ望まないにせよ、文化祭は高校生活でも有数の思い出を残す行事だ。たとえ、硯が気が進んでいなかったとしても、不参加は本人の意志で決めることだろう。
大人がその機会をやむを得ない事情もなしに奪ってはいけないと、雫には感じられる。
「そうなんですか。確かにそれは少しいきすぎているかもしれないですね」
「はい。そのときは私たちとの間で話し合いの場を持って、結局は参加するかどうかは硯さんの意志に任せるという結論になりましたが、硯さんのご両親が教育に熱心なことは、とてもよく伝わってきました。もちろん学校は第一には勉強をするところであり、ご両親の考え方もまったく間違っているとは言えませんが、それでも勉強以外の面を少し軽視しているように、私には感じられてしまいました」
「そうですか。確かに勉強はとても重要ですけれど、それは学校が持つ側面の一部分にすぎないですからね」
「はい。もしかしたら硯さんは、勉強ばかりの日々に息苦しさを感じていたのかもしれないですし、もっと僕たちが話を聞くことができればよかったと、悔やんでも悔やみきれないです」
そう言って軽く唇を噛みしめた牛丸に、雫は「いえいえ、先生方だけの責任ではないですよ」とフォローを入れた。
本音を言えば、今回のことについて牛丸たち学校の責任もまったくないとは言い切れなかったが、それでも雫にはもっと大きな原因があるように感じられる。
それはこの場で口には出せなかったが、それでも雫の中でその人物の存在は、明確な輪郭を持ち始めていた。
「では、硯さんの学業面については、大まかにですが把握できました。では、続いては硯さんの友人関係について、お聞かせいただけますか?」
牛丸の表情が少し落ち着いたタイミングを見計らって、雫は話題を変えた。「はい」と頷いている二人に、雫は再び話し出す。
「今日までに鑑別所でも一度面接を行い、そこで私が硯さんから聞いた話によりますと、硯さんには緒方(おがた)さんという友人がいるとのことでしたが、お二人はどのようにお考えですか?」
「はい。確かに硯さんと緒方さんは、休み時間によく話している様子が見受けられました。ですので一般的に言えば、硯さんと緒方さんは友人と言って差し支えないと思います」
「分かりました。では、他の生徒とはどうだったのでしょうか? 硯さんには他にも友人と呼べるような方はいたのでしょうか?」
「いえ、僕が目にする限りでは、硯さんには緒方さん以外の生徒と話している様子は、あまり見られませんでした。もともと少し消極的と言いますか、クラスの中でもあまり目立つタイプではありませんでしたから」
「そうですか。だとしたら、緒方さんの存在は硯さんの中でも重要な位置を占めていたのかもしれないですね」
「そうですね。もちろん想像にすぎないのですが、硯さんにとって緒方さんは大事な存在だったと、僕にも思えます。ですが、緒方さんが吹奏楽部に所属していることもあって、一緒にいられる時間は少し限られていましたね。硯さんも学校の他に塾にも通っていましたし、放課後一緒に帰るようなことはあまりなかったように思います」
「そうですか。ここでも勉強が中心の生活が、影響してきてしまうんですね」
「はい。それに緒方さんは快活なタイプでして。部活仲間をはじめとして、硯さんの他にも友人がいることは、担任ではない私でさえ把握しているくらいです。なので、硯さんだけに割いていられるような時間も、そこまで多くはなかったのではないでしょうか」
三角が言ったことは雫にも十分に考慮できるもので、だからこそ雫は硯の心情を慮る。唯一とも言っていい友人が自分だけを向いていないのは、とても寂しく感じられることだろう。
もちろんここにはいない緒方を責めたいわけではないが、それでも硯が寄る辺ない思いを抱えていたかもしれないことは、雫にも容易に想像できた。
「なるほど、だとしたら硯さんは緒方さんと思うように一緒にいられないことを、もどかしく感じていたのかもしれませんね」
「はい。もちろんそのことが理由で、硯さんが今回のようなことをしたと決めつけることはできませんが、それでも硯さんが寂しさを感じていた可能性はあるだろうと、私たちは考えています。本当は私たちがもっと相談に乗ったり、ご両親と話したり、硯さんをケアできればよかったのですが……」
三角も牛丸と同じく自責の念に駆られているようだったから、雫は「いえいえ、お二人の責任ではないですよ」と再びフォローに回った。
実際、校内での友人関係は教師の干渉が及ばないものだし、まさかホームルーム等で「皆さん、もっと硯さんと仲良くしましょう」と言うわけにもいかないだろう。硯の両親と話す機会も現実的には限られているし、牛丸たちが説得したところで、両親が考え方を変えてくれるとは限らない。
学校に責任の一端がないとは言わないが、それでも全てを学校のせいにするのは違うだろう。
雫はそれからも時折フォローに回りつつ、二人から話を聞き出した。休み時間は緒方と話す以外はスマートフォンを見て過ごすことが多かったことや、体育や音楽といった教科は苦手としていたことなどが二人からは聞けて、少しでも硯に関する情報を増やすことは、雫にとってもより適切な鑑別に繋がっていくことだった。