目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第129話


「分かってると思うけれど、今のお前には勉強が何よりも大事で、そんなことをしている暇はないんだからな。今頑張って勉強をしておけば、良い大学に入れる可能性も高まる。そして、それはお前の将来の選択肢を広げることになるんだ。給料が良い仕事に就ければ、お前にだって色んなことをする余裕ができる。お金の問題で何かを諦めることほど、切ないことはないからな。お前だって、余裕のない暮らしを強いられるのは嫌だろ?」

「う、うん。それはそうだけど……」

「亜実、私もお父さんと同じ考えだよ。とても残念なことだけど、今の日本はまだ女性差別が温存されてしまっているの。平均年収だってまだ男性の方が高いし、権限のある立場に就いている女性もまだまだ少ない。他にも色んな場面でこれから亜実には、女性だからっていう制限がかかってきちゃうと思う。それを突破するための方法はいくつかあって、正直なところ学歴もその一つなんだ。大学を出ているだけで、就ける仕事の選択肢が広がる。名門とされる大学ならよりそう。身もふたもないけど、それが今の日本の現実なんだよ」

「う、うん。それも前にも聞いたから分かってるよ」

「そうだな。お母さんの言う通りだ。こんなことは言いたくないけれど、ウチは恵まれてる方なんだからな。高校にも問題なく通えて、お前を大学に行かせられるだけの蓄えもある。そういった環境は、決して当たり前のことじゃないんだ。世の中に経済的な理由だったり家族間の問題だったりで、それができない子がどれだけいるか。その子たちと比べるわけじゃないけど、それでもお前は大学に行けるだけの環境があるんだ。もちろん、だから大学に行かなきゃいけないって言うつもりはない。でも、せっかく大学に行ける環境があるのに、行かないことは少しもったいないことだと、将来の選択肢を自分から狭めにいっていると、お父さんたちは思うけどな」

 畳みかけるような崇彦たちの正論に、硯は「う、うん。そうだね……」としか答えられていない。

 もちろん崇彦たちが言うことは、雫にも正しく感じられる。大学を卒業していないと入社できないような企業があるのは現実のことだし、自ら将来の可能性を潰してほしくないという崇彦たちの思いも頷ける。間違いなく、硯の将来を考えて出た言葉だ。

 だけれど、二人の言葉は硯の今を考慮していないように、雫には感じられた。

 二人の態度は硯の自由意志に任せるふりをして、実のところ大学に行くことを強制している。まるで硯がどう思っているのかは二の次みたいに。

 もしかしたら、硯は勉強を苦痛だと感じているかもしれないし、大学にだって行きたくないのかもしれない。でも、頑なに大学進学を考えている二人には、そうは言い出せないのだろう。

 当然、これも雫の想像にすぎない可能性はある。でも、もしそうだとしたら、硯がストレスを感じていたとしても無理はないと、雫には思えた。





 雫と両親の面会は、制限時間である一五分を最大限に使って終わっていた。

 どうして援助交際をしたのかや、援助交際をしている間は何を考えていたのかなど、二人の訊きたいことは尽きなかったようで、硯は次々と質問を浴びていた。それは雫が面会時間の終了を告げるまで続いて、息つく暇もなく飛んでくる質問に硯も苦心していたことが、雫には横顔だけで分かる。

 そんな硯を見かねてか、二人はことあるごとに「悪いのは硯ではなく、お金を出した男の方だ」と言っていたが、それも硯の心の奥まで届いているかどうかは、雫には窺い知れない。

 一五分という限られた時間が惜しいのだろうが、硯のことを思うならもっと余裕を持った訊き方をしてほしいと、三人を見ながら雫は思わずにはいられなかった。

 硯のもとに両親が面会にやってきてから、数日が経った。

 その間、雫はごく限られた時間しか硯に接することができず、腰を据えて話すことはできていなかった。硯との鑑別面接の機会は雫にはまだ残されていたし、雫は雫で他に担当している少年や受け持っている少年相談がある。だから、硯だけにかかりきりになるわけにはいかなかった。

 その日は、朝から雨が降っていた。でも、外はもう身を震わせるほど寒くはなく、何より降っているのが雪ではなく雨であることに、雫は季節の移り変わりを思う。

 雫はデスクワークに取り組みながら、それでも時折机上の電話を気にしていた。今日は家裁調査官である真綾と硯が、再び面談をする日だ。

 雫が二人を引き合わせて第一面接室を後にしてから、そろそろ五〇分になる。いつ「面談が終わった」と内線が入ってきても不思議ではなく、雫は目の前の仕事に完全に集中することはできていなかった。

 電話が鳴ったのは、二人の面談が始まってから一時間が経った頃だった。電話機に表示された番号は第一面接室からの内線で、雫が電話に出ると想像通り、「面談が終わった」という真綾の声が聞こえてくる。

 雫が第一面接室に行くと、硯は再び緊張しているような面持ちを見せていた。真綾との面談が終わった安堵も、雫の登場によって塗りつぶされたかのように。

 まだ自分に心を開いていないことを雫は若干苦々しく思いつつも、硯を連れて居室に戻る。居室に硯を入れ、軽く声をかけてから、雫は第一面接室に引き返す。

 入ってきた雫を見るなり、真綾は立ち上がっていて、「座っててください」と改めて言うことは雫には少し気が引けた。

「真綾さん、お疲れ様でした。どうでしたか? 今回の硯さんとの面談は」

「そうだね。最初の方は前回の繰り返しだったかな。どうして援助交際をしたのか訊いても、『お金がほしかった』としか言ってくれなかったし、援助交際をしている間何を考えていたのか訊いても、『何も考えていなかった』としか答えてくれなくて。もちろんそんなわけはないのに、なかなか硯さんの本心を訊き出すことができなくて。手ごたえもあまり感じられなかったかな」

「そうですか……。やっぱり難しかったですか……」

「うん。だから、途中でちょっとやり方を変えてみたんだ」

「それはどういった風に……?」

「まあちょっとだけど、私のことも話したかな。私のことっていうよりは、私が女性シェルターでボランティアをしてたときに接した女性や、硯さんくらいの年齢の女の子のことなんだけど」

「それって大丈夫だったんですか? 色々個人情報とかあるんじゃ……」

「それは当然だけど、大事な部分とか個人情報はぼかしたよ。でもさ、私が女性シェルターでボランティアをしてたことがあるって言ったら、硯さんも気になるような素振りを見せてたんだ」

 そう言う真綾に、雫も「どういった話をされたんですか?」と気にならずにはいられない。真綾がボランティアをしていた女性シェルターの話は、雫もあまり聞いたことがなかった。

「うん。もちろんシェルターにやってくるような女性には色んな方がいたんだけど、その中でも硯さんの年齢に近い方のことについて話したかな。親から虐待を受けていたり、児童養護施設とかを出て一人暮らしを始めてもうまくいかなかったり、そういった方と数人だけど、私は接したことがあるって話したよ」

「それは、どのように接されていたんですか?」

「まあ、基本的には全部自分でやるんだけど、でも時々は料理や掃除を手伝ったり、バーベキューとかの行事を行ったりとか、そういう感じで接してた。入居している方の話を聞くことも、よくあったよ」

「その方々は、どういった話をされてたんですか?」

「それはここで言うのも憚られるけど、親から虐待されて辛い目に遭ったりとか、施設を出ての一人暮らしがうまくいかなくて大変だったとか。家から出てお金がなかったから、風俗で働くしかなかったり、硯さんのように援助交際で得たお金で何とか生きてきたって方もいたよ」

 真綾の話を聞きながら、雫は会ったこともないその女性と硯の姿を重ねるようだった。もちろん状況は異なるが、それでも同じような経験をしてきた女性がいることは、硯にとっても感じるものがあったに違いない。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?