「そうなんですか。会ったことがない私がこんなこと言っていいのかも分からないですけど、それは大変そうですね」
「雫。大変そうじゃなくて、大変だったんだよ。その方が言うには。その方の家庭は、父親からの身体的・精神的虐待が日常的にあってね。もう耐え切れなくなって家を飛び出したのはいいけど、その方は当時はまだ硯さんと同じ高校生だったから。お金もなくてネカフェにもいられなくて、外で夜を明かしたこともあったって言ってた」
真綾が口にした現実に、雫は言葉を失くしてしまう。自分は両親の庇護のもと何一つ不自由のない生活ができていたのだが、そのことが申し訳なく思えてくるようだ。
「でね、その方に声をかけてきたのは、警察や児相の職員じゃなくて、名前も知らない男しかいなかったんだ。『困ってるよね? 泊まる場所貸してあげようか?』とか言って助けるふりして、実際はその方とそういうことをするのが目的で。でも、生きていくにはどうしてもお金が必要じゃない? だから、そういうことをしてお金をもらうしかなかったって」
続けられる話に、雫は口をつぐんでしまっていた。何と相槌を打ったらいいか、少しも分からなかった。
「でも、それは当然その方が望んだことではなくて。だから、本当は嫌で嫌で仕方なかったみたいで。身体を触れられるのも気持ち悪かったし、さらに事が進むと嫌悪感に泣きたくなったらしくて。でも、目の前の男の機嫌を損ねたらお金だってもらえないかもしれないから、必死に気持ちいいふりをするしかなかった。本当は嫌なのに生きるために自分を押し殺して。毎回事が終わってもらったお金を見たときに、『自分はなにをしてるんだろう』と思ったみたいなんだ」
真綾が続けた内容に、雫は身につまされる感覚がした。
もしかしたら自分の身近にそういった人はいたかもしれないし、すれ違ったこともあるかもしれない。そういった人に、自分は何をしていただろうか。
勉強をして知らなかったわけではないのに、自分の無関心さを今になって雫は呪いたくなる。
「そうなんですか……。それは少し言葉を失ってしまいますね……」
「うん。ようやくシェルターに保護されたときも、その方は毎回そういったことをする度に傷ついてたって言ってたよ。きっと同じように傷ついていたのに、シェルターに繋がれなかった人も多くいたと思う。シェルターに入れる人数には限りがあるし、私たちは傷ついているうちのほんの一部分の方としか繋がれないんだなっていうのは、ボランティアでシェルターに行く度、私も常に感じてたよ」
「そうですね……。こうして私たちが関われる少年は、ほんの一握りですもんね……。それで、その話をしたとき、硯さんはどんな反応を示してたんですか……?」
「そうだね。やっぱり生きるために援助交際をせざるを得ない人がいることは、それなりに感じるものがあったみたい。自分がしたことの重大性をより認識したみたいで、すぐにはまた話ができてなかったよ」
「そうですか……。自分よりも切羽詰まった理由で援助交際に及んでいる方がいることに、自分が洋服やソーシャルゲームのために援助交際をしていたことが、余計に申し訳なく感じられたんですかね……?」
「それは私も思ったよ。もちろん洋服やソーシャルゲームも、硯さんには絶対に必要なものだったかもしれないから、それは比べられるようなものじゃないとは言ったんだけど、でも自分はなんてことをしていたんだって思いは、前の面談よりも強く抱いているようだった」
「真綾さん。硯さんも援助交際をすることで、その方同様に傷ついていたんでしょうか……?」
「それははっきりとは言っていなかったから、私には分からないよ。言葉の節々や垣間見せる表情から、そういった雰囲気は感じられたんだけど、私が断定していいことでもないしね。やっぱり硯さんの口からそうと言われなければ、傷ついてたって勝手に決めつけちゃいけないと思う」
慎重な真綾の考えは、雫にも頷けるものだった。自分たちは、妄想で通知書を書いてはいけない。しっかりと面接や心理検査などで裏付けが取れた情報をもとに、意見をしていくしかないのだ。
雫は「そうですね」と頷くほかない。数日後に控えた面接の重要性がより増していく。
「うん。私もまだ調査を続けるけど、雫も改めて鑑別よろしくお願いね。少しでも硯さんの事情や本心を知って、審判に生かせるように」
そう言った真綾に、雫も「はい」と返事をする。
硯のことが知りたい、本心が知りたいという気持ちは、雫の中でかつてないほど高まっていた。
真綾が硯に二回目の面談を行ってから、二日が経とうとしていた。その間も雫は、硯とほとんど接することができていなかった。
普段硯と接するのは担当教官である別所の役目で、硯のことを気がかりに感じながらも、雫はあまり深く干渉はできない。腰を据えて話すことができる機会は、翌日に行われる三回目の鑑別面接が実質的には最後だった。
そして、その日も雫は特別大きなトピックがないまま、退勤の時間を迎えようとしていた。帰る時間が近づいてくると、雫は翌日に控えた硯との三回目の鑑別面接をシミュレーションする。
自分がしたことについて今どう思っているのか、両親との面会を経て何を感じたのか。
様々なケースを頭の中で組み立てていくものの、これだという決定打が見当たらない。自分は硯の本心を訊き出せるのか、今から危惧してしまう。
そんな矢先だった。パソコンの右下に、メールを一件受信したという通知が浮き出たのは。雫も作業する手を止めて、そのメールを開く。
退勤時間間際になってメールを送ってきたのは、硯の担任である牛丸だった。
雫はそのメールに目を通す。「突然のご連絡を失礼します」という文言から始まった牛丸のメールは、挨拶もそこそこにすぐに本題が記されていた。
硯の唯一と言ってもいい友人である緒方が、昨日牛丸に声をかけたらしい。その内容に、雫は思わず目を留めてしまう。
硯がSNSで主に使用しているアカウントとは別に、いわゆる裏アカと呼ばれるアカウントを持っていたというのだ。そのアカウントには鍵がかけられていて、一般のユーザーからは投稿が見えない仕組みとなっていて、投稿を見られるのは友人である緒方だけだと言う。
それは硯の秘密そのもので、緒方も牛丸に打ち明けるのは躊躇したことだろう。それでも、どうにか硯のためになりたいという思いが、牛丸へと話させたようだった。
もちろん雫が自らのアカウントでフォローをリクエストしても、今は硯のスマートフォンは鑑別所で預かっているから、リクエストを許可されて投稿を見ることはできない。
それでも、緒方は自らのスマートフォンでスクリーンショットを撮って、それを牛丸に送ったようだった。見れば一件のフォルダがメールには添付されていて、雫はそれを硯の裏アカのスクリーンショットであることを察する。「何卒ご確認ください」という文章でメールは締めくくられていたが、それでも雫はフォルダの中を覗いていいのかどうか、一瞬迷ってしまう。
それは紛れもなく、硯の最もパーソナルな部分だろう。いくら鑑別のためとはいえ、そこまで踏み込んでいいのかと。
それでも、確認しないという選択肢は雫にはなかった。もちろん裏アカの存在を確認したことを硯に伝えることとは話が別だけれど、硯の本音を知られる機会はみすみす逃せなかった。
フォルダを開く前に、雫は那須川のもとへと向かった。一時間ほど残業をしたいと申告する。仕事用のメールは、鑑別所の外では決して見てはいけなかったからだ。
理由を話すと、那須川も残業を承認してくれた。雫は自席に戻ると大きく一つ息を吐いて、気持ちを整える。
フォルダをクリックして開く。その中には何十枚ものスクリーンショットが保存されていて、雫はそれを一つずつ見始めた。