硯が最初の一線を越えてしまったことに、雫は目を覆いたくさえなってしまう。このときはまだ性行為はしておらず「パパ活」と呼ばれる範囲に収まっていたようだが、それもお金を出されて時間や自由を買われている以上、問題視しないわけには雫にはいかない。
最初の一歩を踏み出してしまった硯は、それからも月に一度か二度のペースで「パパ活」をしていたようだ。逐一裏アカに書き込んでいるところに、「パパ活」を非日常的な行為だと思っていたことが、雫には窺える。
だけれど、一〇月になされた投稿に、雫の目ははたと留まった。
〝インストークン@squirrelandcat
今日もパパ活。
何度か会ってる人に、そういうことをすればもっとお金を出してあげるよって言われた。
だから、私もその人と初めてそういうことをしてみた。
結果は二時間で三万円。
あまり経験がなくて大変だったけど、それでもその分のお金がもらえたのはよかった。
お金ってこんなに簡単にもらえるんだ。
2024/10/13 21:45〟
その投稿に、雫は思わず頭を抱えてしまいそうになる。それは硯が超えるべきではない一線を越えてしまったことを、明確に意味していた。三万円は硯にとっては大金だろうけれど、それでもそのことで硯が失ってしまったものの方がより大きいように雫には思える。
一六才の女性と性行為をした場合は、五歳以上年が離れていれば相手も即逮捕の対象となるが、それよりも硯が被った害の方がより重大だろう。
できることなら雫は、援助交際をする前の硯を「止めなよ」と説得したい思いに駆られたが、それはもうどうあがいても無理なことだった。
そんな雫の思いとは裏腹に、硯はそれからも援助交際でお金を得ては、洋服やソーシャルゲームに費やしていた。援助交際をしたという投稿と、洋服を買ったりソーシャルゲームでガチャを引いたりという投稿が、交互に並ぶようになる。勉強の話題はとんと出てこなくなり、もしもストレス解消ができていたとしても、硯が悪循環に陥ってしまったと雫には思えてならない。
最初の頃は特に抵抗なく援助交際をしていたように文面からは見えたけれど、でも徐々に抵抗感は抑えきれなかったのか、投稿にも滲むようになっていた。
〝インストークン@squirrelandcat
今日もパパ活。本番までして二時間で三万円。
お金がもらえたときは嬉しかったけど、今はじわじわと嫌だった気持ちが出てきてる。
まったく好きじゃない男と、しかも一〇代の私と援助交際をするようなキモい大人と、そういうことをして得たお金に何の価値があるんだろう。
何やってんだろ、私。
2024/12/18 23:01〟
その投稿からは、自分にお金を出してくるような下劣な相手との行為に、硯が嫌悪感と虚無感を抱いていたことが雫には伝わってくる。
やはり相手の前では平気なふりをしていても、本心ではそうは言っていられなかったのだろう。投稿にも愚痴や不満が増えていっていて、正直雫には見ていられないほどだ。硯が気を病んでいっているようで、目を逸らしたくさえなってくる。
それでも、硯のことをより深く知るためには、雫は最後まで読むしかなかった。ネガティブな言葉ばかりが並ぶ投稿を、雫はどうにか堪えて見続ける。そして、スクリーンショットは最後の一枚になった。
〝インストークン@squirrelandcat
今日もパパ活。二時間で三万円。
もう嫌だ。こんなことしたくない。キモい大人との苦痛でしかない時間はもう限界。
でもお金は必要だし、それに相手の人は私を必要としてくれてる。
勉強をしてる私しか必要としていないお父さんたちとは違って、私の全部を。
そう思うとパパ活は簡単にはやめられないな。
2025/2/20 21:57〟
その投稿がなされた日付は、硯が警察に補導される数日前だった。
痛々しい文面が、雫には自分の胸を刺してくるように思える。硯が援助交際を嫌だと思い、傷ついていたことはもはや明らかだった。
それでも「必要としてくれてる」という言葉が、雫に重くのしかかる。人間は誰でも、誰かに必要とされたいと願う。それは改めて確認するまでもなく当然のことだ。
硯の成績は二年生になってから下がっていたと牛丸は言っていたし、両親から冷たくされたこともあったかもしれない。友達も多いとは言えず、必要とされている感覚を硯は援助交際に求めるしかなかったのだ。
選んだ行為は正しいとは言えないが、それでも硯の希求する思いを雫は間違っているとは言えない。複数の側面から硯が被害者であることが、改めて認識できるようだった。
雫が全てのスクリーンショットを見終えたときには、もう残業を始めてから三〇分以上が経っていた。別所にもメールを転送してから、雫はパソコンの電源を切った。
椅子に座ったまま、束の間思いを巡らす。硯の本心に、図らずも近づけた感覚があった。
「それでは、これから今日の面接を始めさせていただきます。硯さん、よろしくお願いします」
雫がそう言いながら小さく頭を下げると、硯も「よろしくお願いします」と答えながら、同じように小さくお辞儀をしていた。
その声はまだ強張っていて、今日も変わらず緊張していることを雫に窺わせる。鑑別所に入所してから二週間あまりが経つのだが、それでも硯は三回目の雫との面接に、慣れた様子は見せていなかった。
でも、それは雫にも予想できたことだったから、焦ったり慌てたりすることはない。硯が話しやすいように、穏やかな口調と雰囲気を心がける。
「それでは、硯さん。面接の前に一つ確認しておきたいことがあるのですが」
「は、はい。何でしょうか」そう答える硯は、まだ警戒を解こうとはしていなかった。
でも、雫は硯を責めようとしているわけではない。そのことを分かってもらうためにも、雫はわずかにでも表情を緩めた。
「昨日、三月七日は硯さんのお誕生日だったんですよね? お誕生日おめでとうございます」
雫の言葉に、硯は呆気にとられたかのように小さく口を開けていた。どうして雫がそれを知っているのだと、感じているのだろうか。
でも実際、警察が作成した調書に硯の生年月日は記載されている。それが雫に伝わっていることだって、硯には十分に想像できるだろう。雫は、前言を撤回する必要を感じなかった。
「は、はい……。ありがとうございます」
「昨日で硯さんは一七歳になられたんですよね。いかがですか? 一七歳の誕生日を迎えた気分のほどは」
「それは、はい。正直に言うと、あまり良いとは言えないですね……。今までは両親や友達に祝ってもらえていたのに、今年はここにいるからそれもないですし……。今まで生きてきたなかでも、最悪の誕生日だとすら思います」
硯は口調は遠慮していたけれど、それでも口にしている内容は歯に衣着せぬと言ってもよかった。鑑別所で迎える誕生日がいい気分なわけがない。それは雫にも分かっていたけれど、いざ面と向かって言われると、なんだか申し訳ない気持ちにさえなってくる。
雫たちだって「おめでとう」くらいは言うけれど、大っぴらに誕生日を祝うわけにはいかない。それでも、今硯が鑑別所にいるのは硯のためだから、「申し訳ありません」と謝ることは適切ではなかった。
「あと少しで鑑別所を出れますよ」とか「来年はお祝いしてもらえるといいですね」といった言葉も同様だ。確かに硯の少年審判は来週に迫っているし、それが終われば鑑別所は退所できる。
でも、そのまま少年院に入院する可能性も大いにある。確かなことは何も言えない今、そんなことを言っても硯の感情を逆なでするだけだろう。
だから、雫は「そうですね。分かりました」と、理解を示すことくらいしかできない。自分をこんな状況に追いやっているのは雫たちだと思われれば、弁解するしかなかったが、それでも硯は少しむすっとした表情を見せただけで、重ねて何かを言ってはこなかった。
「だったら早く出してくださいよ」と言ったところで、もう少年審判の日程は決まっていて動かせない。それは硯にも分かっていることだった。