「硯さん、どうかされましたか……?」
「……あの、先ほど山谷さんが言ったこと、本当はその通りなんです」
「先ほど私が言ったこととは……」
「私が勉強のストレスから逃れるために、今回のような行為に及んでいたこと。本当におっしゃる通りなんです」
三回目の、最後の面接が終わる頃になって、硯は自分の主張をがらりと変えていた。
そのことに雫には自分の予測が当たっていた納得感よりも、驚きの方が先に来る。このままごまかして面接を終えることだってできたはずなのに。
「硯さん、そんなに無理なさらないでください。本当に違うのなら、私が言ったことに無理して合わせる必要はないんですよ」
「いえ、無理なんてしてないです。だって本当のことなんですから。山谷さんも面会のときに、私のお父さんやお母さんが私にかけた言葉は聞いていますよね?」
反対に尋ねてきた硯に、雫も「ええ」と頷く。硯と両親の面会の内容は録音していたわけではないが、それでも雫の頭にはまだ残っていた。
「私がこんなことになって、もちろん心配はしてくれましたけど、でもそれは将来の私に対する心配でした。勉強ができなくなって、学校にも行けなくなって、将来に悪影響が出るかもしれない。二人ともそんなことばかりを考えていて、今の私への心配は全然してくれてなかったですよね?」
確認するように語尾で尋ねてくる硯に、雫は「いえ、そんなことはないと思いますよ」と、否定することができなかった。崇彦や茉奈の言葉からは、現在の硯をどこかおざなりにしている印象は、雫にもあったからだ。
「硯さん。それはそうかもしれないですけど、でも硯さんの人生はここを退所した後も続いていくんですよ。それをご両親が心配するのは当然のことではないですか?」
「……山谷さんもお父さんたちと同じなんですね。結局今の私を見てはくれないんですね」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
「いや、そうですよ。もちろん、将来のことが大事なのは私も分かってます。いい仕事に就いて安定した生活を送るためには、大学に行かなければならない。そのためには今勉強しなくちゃいけないことは、私にだって分かってるつもりです。でも、今の私がなかったら将来の私もないじゃないですか。極論を言えば、今私が死んだら将来も何もないですし」
「硯さん。たとえ極論だとしても、『死ぬ』だなんて言わないでください」そうたしなめる雫にも、自分の口から出る言葉にはイマイチ説得力が感じられなかった。硯が言っていることはたとえ極論だとしても、十分正しかったからだ。
「山谷さん。もちろん、私は死ぬつもりはないですよ。でも、そんなに将来のことばかり言われると、今を生きている感覚があまりしないんです。将来のための勉強に時間を費やすばかりで、今の私はどこにあるんだろうって思ってしまうんです。それがふとした瞬間に嫌になってしまって。ちゃんと今を生きたいって思ったんです」
硯の言葉は、切実な響きを持って雫には聴こえた。
自分には法務技官になるという確固たる目標があったから勉強も頑張れたのだが、明確な目標がないまま親とはいえ他人に言われてやる勉強は、ただ苦痛なだけだろう。硯がそんな勉強中心の日々にストレスを感じていたのは、雫にももはや疑う余地はない。
それでも、その感覚が援助交際に結びつく要因に雫は確証が持てなかった。硯の裏アカを見て大まかな予想は立てているのだが、少なくとも雫には今まで生きてきて、援助交際をするという選択肢が過ったことは一度もない。とても幸せなことに。
「そうですか。硯さんがそう感じていたことは分かりました。ですが、今を生きる感覚を得ることは、必ずしも援助交際だけに限らないのではないでしょうか。もっと他のやり方で、その感覚を得ることはできなかったのでしょうか?」
「……それは部活に打ち込んだり、友達と遊んだりとかそういうことですか?」
ためらいがちにそう返してきた硯に、雫は胸を突かれる感覚がした。
硯は両親から部活に入ることを禁じられていたし、友人も緒方しかいない。そして、その緒方は吹奏楽部の活動があるために、硯と予定が合わないこともしょっちゅうだった。
考えるほどに、硯がごく限られた選択肢しか持てていなかったことに、雫は思い至る。「はい、そうです」と頷くことは気が引けた。
「確かにそれらも方法の一つではありますが、でも他にも取れるような方法があったのではないでしょうか?」
「それは、例えばどのようなことですか?」
即座に訊き返されて、雫は少し返事に詰まってしまう。何か具体的な案があって口にしたわけではなかった。
「そうですね……。例えばサブスクリプションサービスで音楽を聴いたりですとか、アプリで漫画を読んだりですとか、図書館で本を借りたりですとか、そういったことが考えられますね」
「確かに言われてみれば、そうすべきだったのかもしれないと思います。でも、それは今振り返ってみて思ったことで、そのときの私にはそんなことを考える余裕はなかったんです」
「そうですか。硯さんは、それほど追い詰められていたんですね」
「はい。今になって振り返ってみれば、そうかもしれないです。でも、たとえそのときにそういったことを思いついていても、私はそれをしていなかったと思います」
「それはどうしてですか?」と訊きながら、雫には硯の答えがそれとなく分かるような気がした。
「だって、それらは全部一人でやることじゃないですか。音楽を聴くのも、漫画を読むのも、本を読むのも。塾にも通っていたとはいえ、私は基本的に一人で勉強してたんですから。これ以上一人の時間を増やしたくないと、そのときの私だったら思っていたかもしれません」
硯の返答は、概ね雫が推測した通りだった。確かに今雫が挙げたことは、全部一人でもできる。それは長所でもあるのだが、硯にとっては短所に思えるのだろう。
硯が孤独を感じていたことは、雫も裏アカの投稿を見て感じ取っていた。
「そうですね。すると、ものすごく矮小化した言い方になってしまうのですが、硯さんは一人でいることが寂しかったのですか?」
「はい。そんな短い言葉で押し込めてほしくないとは思いますが、そう感じていたのは否定できないです」
「そうですか。では、援助交際に及んでしまったのも、その寂しさゆえのことなのでしょうか?」
「はい。それだけが理由ではないですけど、理由の一つには間違いなくなっていました」
少しずつでも自分は、今回の事案の核心に近づけてきている。その実感が雫にはあったから、さらに硯の言葉を引き出せるように、努めて穏やかな表情を保った。
「その気持ちは分かります」と、安易な同情は逆効果になるだけだった。
「……思えば、私の両親は私が小学校のときから口酸っぱく勉強しなさいと言っていました。中学受験もさせられそうになったくらいです。そのときは、当時の友達とどうしても同じ学校に行きたいと頼み込むことで、どうにか説得できましたが、さすがに高校受験にもなるとそうはいかなくて。実は私、第一志望だった進学校に落ちてるんです。そのときの両親の一瞬でしたけど、失望するような表情は今でも忘れられません。両親が必要としているのは、頑張って勉強をして良い成績を収めている私だと、そのとき気づいてしまったんです」
「そうですか。それは大変でしたね」
「はい。だから、もし勉強についていけなくなって、成績が落ちたらどうしようと。そんな私を両親は受け入れてくれるだろうかと、次第に不安になっていったんです。ちょうどその頃に、実際に成績も落ち始めまして。両親も表向きは励ましてくれましたけど、でも本音が冷ややかなのは、言葉にされなくても伝わってきました。このままでは私は両親に必要とされなくなるのではないかと、怖くなったんです。そんなときでした。パパ活、援助交際といった選択肢が、私に身近なものとして出てきたのは」
本心を吐露し続ける硯に、雫はただ小さく頷くしか相槌を打てなかった。
自分の立場から何を言えばいいのか。その答えは、簡単には見つからなかった。