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第135話


「もちろん最初は、大人の男の人と初めて会うのは怖かったです。でも、初めてパパ活をしたときに、相手の人はとても優しくしてくれて。本当に心から私を必要としてくれているようでした。もちろん、それはお金を払っているからだったんでしょうけれど、それでも等身大の私を必要としてくれていることは、私にはなかなかなかった経験で。少し嬉しくも感じてしまったんです」

 誰か他の人に言ったら顔をしかめられるようなことでも、硯は真剣な表情で言っていたから、その感覚は間違っていると頭ごなしに否定してはいけないと、雫には思える。

 硯は勇気を出して、本心を打ち明けてくれているはずだ。だから雫は、「そうだったんですか」と相槌を打ちながら、硯の話にじっと耳を傾けた。

「はい。もちろん、どうしてこんなことしてるんだろうと思ったこともありましたけど、それでも私は表向きは何事もないかのように、パパ活を続けていました。もらったお金も洋服やソーシャルゲームの課金に使って、なんとか勉強ばかりの日々を過ごすことができていました。でも、続けていくうちにそう言ってもいられなくなって……」

 そこでいったん言葉を区切った硯の胸中が、雫にはまるで直接見えるかのようだった。極めてデリケートなことだから、言い淀むのも当然だろう。

 だから、雫は「それは相手の要求が、硯さんのプライベートな領域を侵食するようになっていったからですか?」と、それとなく訊いてみる。すると、硯はごく小さく首を縦に振っていた。

「はい。何回か会ううちに相手の要求は徐々に増していっていて。その分お金をくれるから、私もできる限り応えていたんですけど、さすがにそういうことをしようって言われたときには、本当にきつくて。お金を払えば何をしてもいいと思ってるんだなって、がっくりきたのを今でも覚えています」

 そのとき雫は、初めて硯の口から「きつい」という言葉を聞いていた。今まで硯は、自分から望んでそういったことをしていたと言っていたが、本音は違ったのだ。

 切実な表情から、硯が紛れもなく本心を言っていることが分かり、雫は「そうですよね」と相槌を急ぎたくなる。それでも逸る気持ちを抑えて、雫は聞き役に徹した。

「こんなことを言うのは恥ずかしいんですけど、私だって今まで、そういった経験がなかったわけじゃなかったんです。でも、それは私が好きな相手と望んでしたことで。でも、私にお金を出すような大人の男の人には、どれだけお金を出されても、そうは思えなかったんです。いい大人なのにまだ子供の私に興奮していて、心の底からキモいなと感じました。でも、高いお金をもらっていることもあるし、何よりその人は私を性的な意味だとしても、必要としてくれている。そう思うと、断ることはできませんでした」

 思い出すのも辛そうに語る硯に、雫は「断ってもよかったんですよ」と言いたくなる。

 でも、いくらそう言ったところで結果論にすぎないし、硯が援助交際をしたという事実が変わることもない。

 だから、雫は「そうですか……」とシンプルな相槌を打つに留めた。たとえ硯を慮っていたとしても、余計な言葉は今の硯を傷つけるだけだった。

「これは、私が望んでやっていることだ。相手とそういうことをするときになって、私はそう自分に言い聞かせました。でも、無理だったんです。好きでもないキモい大人に身体を触られているだけで、私は嫌悪感に吐きそうでした。それに相手のあそこが私に入ってきたときのおぞましさは、鳥肌が立つなんて現象ではとても済まなくて。総毛立った全身が、拒絶を強く訴えかけているようでした。こんなことしたくないとはっきり思い、気を張っていなかったら、嗚咽さえ漏らしてしまいそうなほどでした。それでも、相手はそんな私の思いにも気づかず、『気持ちいい?』なんて訊いてくるんです。ここで嫌な表情をしてしまったら、相手の機嫌を損ねてお金がもらえなくなるかもしれない。だから、私は顔が歪みそうになるのを必死に抑えて、気持ちいいふりをするしかありませんでした。心の中では『絶対に断るべきだった』と、激しく後悔しながら」

 硯が語った内容は壮絶そのもので、「それは大変でしたね」と安易な理解を示すことは、雫には憚られた。

 自分には想像もできないような苦しみを硯は味わっていた。そう思うと、よくぞ今日まで生きてきたという思いさえ、雫には湧いてくる。

「そういうことをしている時間は、私にとってはとても長く、それこそ永遠にさえも感じられました。でも、どんなに嫌でもその時間はいずれ終わって。相手の人からお金を受け取って、一人になったときに私は、自分のことがとても惨めに感じられてしまったんです。私はお金ほしさに、自分の身体を売ってしまった。好きでもない相手とそういうことをして、私の身体は汚れてしまった。必要とされた嬉しさなんてものはそこにはなく、ただ嫌悪感と絶望感がありました。私は生きている価値がない人間だって、大げさじゃなく思いました」

 硯の言葉は、実際に身をもって体験した人間の生々しさに満ちていた。聞くのも苦しいネガティブな言葉の羅列に、雫は思わず耳を塞ぎたくなってしまうほどだ。

 思わず口にした「いいえ、硯さんはちゃんと生きている価値がある人間ですよ」という言葉も、どれだけ硯に届いたかは分からない。それでも雫は、気を落としている硯を黙って見守ることはできなかった。

「ありがとうございます。でも、私はやっぱり普通の子とは違う、汚れた人間なんです。そんなに嫌な思いをしたのなら、すっぱりパパ活や援助交際をやめればいいって思いますよね。でも、私にはそれもできなかったんです。洋服やソーシャルゲームのためにやっぱりお金は必要で。それに断ってしまうと、相手の人との関係性がなくなって、私がまた一人に戻ってしまうようで、それが私には、とても怖く感じられたんです。それはそういうことをしているときの嫌悪感をも上回るもので。だから、相手の人と会うのをやめるという選択肢は、私には取れませんでした」

「硯さん……」気がつけば、雫はそう短い相槌しか打てなくなっていた。切実な口調から、硯の気持ちが痛いほど伝わってくる。

 誰だって一人になるのは怖い。だから、人は人との繋がりを求める。

 硯だって、実際には誰とも繋がっていなかったわけではない。でも、両親や緒方、牛丸たちとは精神的な距離を感じてしまっていたのだろう。

 ここまで話を聞いておきながら、雫は硯の気持ちを完全に理解することはできない。でも、理解しようとすることをやめてはいけないとも、雫は思った。

「山谷さん。私、おかしいですよね。一人になるのが怖いからって、好きでもない相手とお金をもらって、そういうことをして。私、頭おかしいですよね」

「いえ、そんなことはないと思いますよ。確かに、実際に取った行動は適切なものではなかったのかもしれませんが、一人になりたくないという思いは、誰もが持っているものですから。もちろん、私も含めて。硯さんが特別おかしいわけではないですよ」

「そうですか……? 他の子は一人になるのが怖くても、援助交際なんてしないのに……。ちゃんと側にいてくれる友達がいるのに……」

「硯さん。確かにそういった人もいるかもしれませんが、現実にはそうではない人も大勢いるんですよ。誰にでも友達がいるというのは、幻想に近い考え方です」

「でも、その子たちもどんなに寂しくても、援助交際はしてないですよね……? もっと他のやり方で、寂しさを紛らわせていますよね……」

 硯はなかなか自分をおかしくないと認めることはできていなくて、雫は少し言葉に詰まってしまう。法務技官という立場なら、何か話して然るべきなのに。

「他のやり方とは何ですか?」と訊いても、ただ硯を困らせるだけで得策とは言えないだろう。

 返す言葉を懸命に探している自分を、雫は申し訳なく思う。法務技官としての役目を果たせていないように思えた。

「山谷さん」と、硯が再び雫に呼びかける。「何でしょうか?」と相槌を打ちながら、雫には首元を掴まれているような錯覚さえしていた。

「私に、援助交際をやめさせてくれませんか? そのためなら、私は少年院でもどこでも行きます。もちろん一人になるのは怖いんですけど、でも今はそれ以上に好きでもない相手とのそういった行為は嫌だなって、心から思うんです。だから、お願いします」

 そう言ってきた硯に、雫は束の間驚いてしまう。入所した当初は、硯は少年院には絶対に行きたくないと思っているようだったのに。

 もちろん、今でも硯は進んで少年院に入院したいわけではないだろう。どうにかして援助交際をやめたいと、藁にも縋る思いで言っているだけだ。

 だから、雫はその思いに応えなければならないと思う。硯がこれから先、健やかな人生を送るためにも。

「そうですね。もちろん今この場で、少年院に入院してもらうという判断を下すことはできないのですが、でも硯さんのその思いには、私たちも必ず応えます。硯さんの今日からの人生のために、どんな処遇がふさわしいのかを、全員で頭を振り絞って考えます。ですから、少年審判の結果どんな処遇が出たとしても、一度はそれを受け入れてくださいね。これは私からのお願いです」

「はい」と、硯は確かな相槌を打っていた。自分の顔に向いた目に、雫は自分たちの仕事を全うしなければと改めて思う。

 目の前にいる硯を救うと言ったら大げさだが、それでも少しでも助けになりたいと心の底から感じた。

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